神々の歳時記     小池淳一  
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2010年3月1日
【39】山の神の日

 山に宿る神霊を広く山の神と呼ぶが、その正体や淵源についてはあまりに多くの伝承があって、はっきりと見定めることができない。少なくとも、神道でコノハナサクヤヒメとかオオヤマツミノミコトに比定する以上に民間の山の神信仰は多岐にわたる展開を遂げている。
 例えば、中山徳太郎・青木重孝による『佐渡年中行事(増補版)』(一九九九年)によれば、新潟県佐渡の山の神の日は大部分が二月九日であったが、八日とするところもあり、四日とか、二八日とする場合もあった。旧暦であることを考えると、ちょうど春先のごく早い時期に山の神を祀る日取りが設定されていたことになる。
 山の神の祭日は、東北をはじめとする東日本では一二日とする地域が多く、関東では一七日とする場合も少なくない。北陸では九日とすることが多く、東海から中部、さらに近畿地方の南部では七日である場合が多い。近畿では広く三日であるのに対して中国地方では九日とする地域が大部分である。四国は、九日、七日が多いが、一九日の宵からが山の神祭りだとする地域もある。九州ではかなり多様であるが、一五日もしくは一六日とすることが目立つという(堀田吉雄『山の神信仰の研究(増補改訂版)』、一九八〇年)。
 このように祭日が日本各地でまちまちなのも、この神が古くから広い地域でそれぞれ独自に信仰され、さらに変遷があったことを示しているのだろう。山の神とは山という空間を人々がどのように利用し、そこにどういった霊威を感じていたかを示すものと言えそうである。
 先に触れた佐渡では山の神については、興味深い伝承が伴っていた。それはこうした山の神の日には、山に行くことが広く禁じられており、その理由として、山の神が弓を射る日なので、その音を聞くと死ぬ、とか、山に行くと矢じりが落ちているなどと言っていたことである。まるで、この日に神が人間を標的にするかのような言い伝えであるが、その意図は、山という空間全体が、神祭りのための物忌みの状態になっていることを強調することにあったのであろう。
 ただし、そうした禁忌の感覚を印象づけるために、どうして弓や的といった庶民には関係のない武具や武術を引き合いに出されるのかが気になるところである。東日本では山の神の日を一二日とするだけではなく、山の神そのものを十二様と呼んだり、十二人で山に入るのを嫌ったりする地域も多い。新潟県南魚沼郡では旧暦の二月一一日の夜に生木などで弓矢を作り、翌一二日の朝に十二様に奉納することになっていた(武田久吉『農村の年中行事』、一九四三年)。佐渡の山の神の日に関する伝承もそうした供物としての弓矢から、あたかも山の神が弓を射るかのように考えられたのかもしれない。
 山の神を祀る際に弓矢のような武具を供物とするところは、今日的に見れば、それほど多くはない。しかし、新潟や長野、群馬などでは、かつてはよく見られた。山の神には弓矢を供えるべきであるという感覚は農耕をなりわいとするというよりも、日常的に弓矢を使う生活のなかで育まれたものである可能性がある。すなわち、狩猟民の感覚がこうした山の神信仰の根底には流れているということができよう。
 山の神の信仰は、狩猟をなりわいとする人々の意識が取り込まれていることが、こうした供物や禁忌の伝承からはうかがえるのである。また一方で春になると、山の神が田の神となって里に下りてくるとか、農神と交代するなどという伝承も広く聞かれる。自然の移り変わり、生業の変化あるいは複合に伴って、それらを見守る神の性格も変化するという理解をさらに深めていく必要があるだろう。

 


   石一つ据ゑて田の神山笑ふ   吉田舟一郎






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