神々の歳時記     小池淳一  
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2010年8月15日
【50】放生会の伝統

 放生会とは、生き物、主として鳥や魚などを野や池などに放って供養する行事で、殺生を忌む仏教的な思想から生まれたものと考えられる。神仏習合の時代から広く寺社で盛んに行われてきた。
 もともとは九州大分の宇佐八幡宮の宇佐放生会が起源であるとされ、現在では十月の行事であるが、古くは八月十四日から十五日にかけて行われていた。八幡信仰はやがて近畿に広がり、中でも石清水八幡宮は朝廷をはじめとする篤い尊崇を受けた。この石清水八幡の放生会も古くは八月十五日であったとされる。
 また清和源氏の氏神としても信仰されるようになり、源氏が武家の頭領と仰がれるようになるにつれ、武神としての側面が強調されるようになった。関東では鎌倉の鶴岡八幡宮が著名であるが、武士たちが自らの支配する土地に盛んに勧請したことから、現在でも全国の至る所で八幡宮が祀られている。
 八幡大菩薩という呼称も馴染み深いものであるが、この呼び方は八幡の神と仏教の菩薩号とが古くから結びついてきたことを示している。日本の宗教をとらえる視点として、明治以降の神仏を厳格に区分する考え方と、それを根の浅いものと批判し、神仏習合を重視する考え方とがある。八幡の神は、神仏が渾然一体となり、さらにそれを基底に生活のさまざまな祈りや願いを受け止めてきたといえるだろう。
 九州では福岡の筥崎八幡宮の放生会も有名で、現在では九月に行われるが、これもかつては旧暦の八月十二日から十八日にかけての行事であった。放生会が秋の深まる時期に移行していくのは神社ごと、地域ごとの事情があっただろうが、全体としては、秋の収穫祭の性格を帯びるようになったのではないだろうか。
 岐阜県郡上郡和良村では九月十五日を放生と言い習わし、農作業を休む日と認識されていた。前日の十四日には、たとえ雨が降ろうと一家の主婦は里芋を掘らねばならないとされ、掘った里芋や粟、キビなどの初物を仏壇や神棚に供えることになっていた(東洋大学民俗研究会『和良の民俗』、一九七九年)。これは明らかに秋の収穫を先祖や家々に祀られている神とともに祝おうとするもので、人間の側からすれば、体を休める節目にしていたのであろう。生命を慈しむ感覚は人間の暮らしにも及んでいたのである。
 放生会は、本来神に魚や鳥を捧げる感覚があり、仏教との融合によって殺すのではなく、生かしたまま放つ儀礼へと変化したものと推定されている。日本古来の神を祀る方法と新たに渡来してきた仏教の教えとの接合がはかられたのである。寺社の境内には放生の意味を帯びた池がある場合も多く、そこでは魚や水鳥、さらには亀やさまざまな虫までもがのんびりと過ごしている風景が見られる。特定の堂や社のかたちをとらずとも、こうした環境そのものが、日本的な宗教を表現しているのであり、そこに日本人の信仰の歴史が溶かし込まれているということになる。
 また、鳩の群れは八幡に限らず、寺社一般につきものである。八幡信仰では鳩を神の使いとする感覚があるが、放生会の精神との関連もそこに読みとることができるだろう。さまざまな現代の記念式典、特に夏であれば、平和を祈念する行事でも鳩を放つ場合がある。こうした比較的宗教色の薄い儀式にも、自由な生命を無上のものとする放生会の感覚が表出しているように思われ、その伝統の深さに気づくのである。

   放生のもの方角を得て(およ)ぐ  植田朱門亭

 

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