神々の歳時記     小池淳一  
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2010年9月15日
【52】月見の深層

 秋には月を愛でる夜が少なくとも二回、意識される。旧暦の八月十五日と同じく九月十三日である。そして、どちらも月を観賞するばかりではなく収穫を祝う感覚が行事の根底にあることが注目されてきた。
 月見の晩の供物によって八月十五日を芋名月、九月十三日を豆名月と言うのはそうした月見と農耕の節目との結びつきを改めて想起させる呼称である。そして、芋や豆、あるいは栗といった供物は畑作物の象徴と解されることが多い。
 日本列島は古くから稲作のための努力が積み重ねられ、土地や稲の品種などの改良が行われてきた。米の出来が世の中の明暗を分け、また土地も米の取れ高で評価される時代が長かった。
 その一方で、米以外の作物も日本人の生活に深く関わり、重要な役割を担ってきたことが、民俗研究では近年になってようやく明確に意識され、さまざまな生業の複合の様相をとらえる努力がはじまっている。そうした研究を牽引している安室知の報告のひとつを参照してみよう。
 安室によると長野県飯山市富倉は信越国境の山あいの村であるが、この村を訪れる人は一面のマメ畑に驚き、冬の時期の降雪によって麦も作れないであろうことから、村の貧しさを推し量ったものだという。しかし、実際はこの村は水田を多く持つ豊かな村なのである。なぜそうした誤解が生じるかといえば、旅人がたどり、村を眺める視点は谷添いの街道からのもので、そこからは田んぼの畦に植えられているマメしか見えないためである。富倉はその名の通り、富んだ村であり、斜面に小さな水田を数多く作り、稲作を行う他に畦を巧妙に利用し、大豆を中心とする畑作も盛んにおこなっていたのであった。
 畦における大豆栽培は連作障害とは無縁で、施肥も要らず、稲刈りの作業とは違って一一刻を争うということもなく、労力と時間の調整が可能であった。そして取れた大豆は味噌や納豆の原料となり、村人の食生活を支えてきた。安室は稲作と時間、空間、労力の点で葛藤を起こさず、共存してきたこうした農耕のありかたこそが水田の力であったと評価している(「アゼ豆の村―長野県飯山市富倉―」『水田をめぐる民俗学的研究―日本稲作の展開と構造―』、一九九八年)。
 こうした米作りと矛盾しない生業の多様性は、稲作とそれによって得られる米だけに特化されない民俗文化の基盤でもあった。それは日本の神話のなかにもさまざまな作物の起源が述べられていることからもうかがうことができるだろう。『古事記』では、オオゲツヒメ(大気都比売)がスサノオに鼻や口、尻からさまざまな食べ物を出して饗応したために殺され、その死体から稲や粟、小豆、麦、大豆などが生じたと述べられている。『日本書紀』ではウケモチノカミ(保食神)が同じように死んだ後に、粟や稗、稲に大豆、小豆などが生じたことになっている。
 このタイプの神話は世界的に広く分布する栽培植物の起源神話であるが、それらを比較して、日本神話の特徴として、次の点を大林太良が「オオゲツヒメ型神話の構造と系統」(『稲作の神話』、一九七三年)という論考で指摘している。すなわち『古事記』にあるように穀物を生み出す女神は、月と関係があり、さらにいくつかの作物を一人の神から生み出すのは山間地における焼畑農耕のイメージを反映したものであり、系統的には中国の華南地方の文化と共通性があるというのである。
 現在の民俗文化の月見の起源をこうした神話研究の成果と単純に結びつけることはできない。しかし、天上の月とその運行に対して地上の様々な穀物の稔りを準備する感覚の深層には、こうした太古からの感覚と共通するものがあるのかもしれない。夏に照りつけた太陽だけではなく、秋の夜半に月にも思いを寄せる感覚は、季節の進行や収穫の喜びと重なり合っているともいえるだろう。

   豆枯れて影たゞしさよ十三夜   相馬遷子


 

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