神々の歳時記     小池淳一  
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2010年12月1日
【57】月日を数える

 新しい年を迎えるためには、漫然と日を送るわけにはいかない。新しい時間を刻むためには、古い時間に区切りをつけなくてはならない。新年に向かう時期のあわただしさは正月の準備はもちろんだが、今年のうちに何らかの区切りをつけておきたい事柄が多くあることに起因する。
 一年の区切りが大晦日から正月朔日の間にあり、除夜の鐘で一年を締めくくるというのは新しい感覚である。新年を冬から春への季節の変移ととらえるならば、その区切りは節分である。あるいは新暦は古くからの季節感とそれらに支えられた行事の意味を反映してはいないことを考えれば旧暦の正月こそが区切りとなる。沖縄では現在でも、旧暦で正月を祝う慣習が広く生きている。
 さらに一日の始まりはいつか、というのも実は問題がある。時間感覚が時計によって普遍的に律せられるようになってからは午前零時という理解が生まれたが、それ以前の感覚を史資料から掘り起こして検討すると、夕方が一日の区切りとなっていたことが推察されている(平山敏治郎「一日のはじめ」『歳時習俗考』、一九八四年)。日が沈むと一日が終わり、夜の闇とともに新しい一日がはじまるという感覚がかつてはあったらしい。各地の古風な祭りでは祭日の前の晩から供物が整えられる場合が多いが、これは一日のはじまりに際して神事がスタートすることを示しているのだろう。
 同じように大晦日の年越しの膳が慎重かつ周到に準備されるのも一年の締めくくりではなく、新しい年の最初の食事であるためであろう。日が暮れるとともに新たな年神に捧げる供物というのが年越しの膳の古い本来の意味であったと考えられる。
 また青森県下では十二月に入ると「神様の年取り」とか「カゾエヅキ(数え月)」と称して毎日のように神祭りを行う習慣があった。南部地方の山間部の集落である新郷村西越、田中あたりでは一日は神明様、三日が稲荷様、五日がエビス様、七日が天王様、八日が薬師様、九日が大黒様、十二日が山の神様、十三日が虚空蔵様、十五日が三岳神社、十六日が農神様、二十三日が子安様、二十五日が天神様、二十八日が不動様の年取りであるといい、主としてシトギを供えた(青森県立郷土館編『西越・田中の民俗』、一九九〇年)。米を砕いて作った粉を丸めたシトギは餅とはやや異なるもののハレの日の供物であり、神饌として古い伝統を感じさせるものである。こうして次々と神仏を祀っていき、最後に新しい年の神が迎えられるというわけである。
 同じ青森県でも陸奥湾に突き出した夏泊半島の漁村である平内町浦田では、似たようなかたちで神様の年取りが行われていたが、十二月一日はお岩木山の年取りで、十一日はオフナダマ様の年取りであるとしていた(青森県立郷土館編『浦田の民俗』、一九八一年)。南部の山間の新郷村とは異なり、津軽の海辺では津軽平野にそびえる岩木山の神を祀ること、船に宿る神霊であるフナダマ(船霊)サマも祀るところに特色が見いだせるだろう。
 家やなりわいにまつわる神や仏を一日づつ祀りながら、一年間の加護に感謝し、明くる年の平安を祈る心情をこうした行事からはうかがうことができる。それとともに地域の神や出産にまつわる子安様のような神格にも怠りなく供物を用意する点には、一年のしめくくりから新年のはじまりにかけての時間が毎日の生活の流れとは異なる祭祀の機会であり、特に重視されていたことの表れとも言えるだろう。
 押し迫った十二月の年の暮から正月元日を経て小正月と呼ばれる十五日前後にかけての期間は、一年のなかでも特殊な時間感覚があり、それらは神仏の祭祀に表現されているといえるのである。

   年終る街にて何も買はずけり  平賀静浪




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