神々の歳時記〜連載開始にあたって

小池淳一              


 日常生活のなかでくり返しおこわなわれ、紡がれてきた文化を民俗文化と呼んでいる。そのなかのカミやホトケに関することがらを取り上げて歳時の流れのなかに探ってみたい、というのが今回の連載にあたってのもくろみである。その過程で俳句の季語が芽吹き、成長してくる土壌のようなものを見透かしてみたい。
 ここでカミやホトケとカタカナで書くのは民俗研究における約束ごとにもとづいている。カミに神を、ホトケに仏といった漢字を与えてしまうと、外国の文字である漢字それ自体が持つ意味に事象そのものをすりあわせて解釈してしまう可能性が生じる。それを避けるために日本の民俗学では、くらしの中でさまざまなニュアンスで伝えられて来た言葉を注意深く扱うための方法として、あえてカタカナで表記することにしている。これを民俗語彙(みんぞくごい)というが、少し奇妙に感じるむきもあるかもしれない。やまとことばに属するものや、ごく簡単でやさしいと思われる言葉までをあえてカタカナで書き記すことで、少し立ち止まってもらい、そうした言葉とさまざまな地域の生活とのかかわりに注意を促すというつもりで接していただければありがたいのである。
 さて、「神々の歳時記」と題する、この試みは民俗学的にいうならば、年中行事のさまざまな場面に見え隠れする神霊や霊魂などの姿を改めて考えるということなのだが、はたしてどこまでその魅力を伝えることができるか、いささか心許ない。民俗学がとらえ、考えようとしてきた神々は神話に登場するような長々とした難解な名を持つものではないし、きちんとした―時には窮屈に見えるような―儀式の中に位置づけられているものでもない。その多くが、旧い家の片隅にひっそりと祀られたり、路傍のちいさな祠から、われわれの暮らしを見守っている。それらは絵画や彫刻にはっきりと示されことは少なく、さまざまな言い伝えや摩耗した木や石のかたちで、くらしのなかにふんわりと存在しているものである。宗教というほどはっきりとした存在ではなく、教典、教義を明確に持っているわけではないが、人々の心のなかに息づき、確固たる位置を占めてきた。近年の気ぜわしいくらしのリズムによって、そうした存在を忘れ去ろうかという傾向があるが、それでもどこかしら現代のくらしの中にそれらの残響を感じることがあるのではないだろうか。ここで考えていきたいのは、そうしたカミやホトケとわれわれ人間との交流であり、共鳴の記憶の数々である。
 それらを各地の伝承を紹介することで何とかとらえていきたい。それらは身近なくらしの中の記憶にかかわるものであるから、どうか気軽にご意見、ご感想をお寄せいただきたいと思っている。そして時にはそうした声に応えることも心がけていきたい。それがこのようなホームページを通じて書いていくことのメリットでもあろうと考えている。


小池淳一(こいけじゅんいち)
国立歴史民俗博物館准教授。
著書に『伝承歳時記』(飯塚書店)、『陰陽道の講義』(共編、嵯峨野書院)など。


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