第3回 2010/01/26

  高濱虚子の100句を読む     坊城 俊樹




   蓑虫の父よと鳴きて母もなし   虚子  
    明治三十二年九月十日、東京の根岸は子規庵での句。

 虚子は明治三十年六月に東京の下宿先の娘であった大畠いとと結婚をしている。なんとか俳句の世界に入って落ち着いてきたのだろう。碧梧桐との間には融和した期間であって、唯一の波乱は「いと」をめぐる恋のさや当てであったとかなかったとか。その真相は霧のかなたであるが、若い二人がいろいろな意味で溌剌とした青春のまっただ中にあったことは推察される。
 明治三十年には柳原極堂が松山で『ホトトギス』を発行したのだが、虚子はそれを横目に「乱調」とよばれるような奇妙な試みをしている。
  蛇穴を出て民水草を追ふべく     虚子
  燕の来り雁の帰るを窓に機織る人
  公園の遅き日を居合抜き独楽まはし
 二句目などは七七九であろうか。乱調もはなはだしい。虚子のこのころの俳句生活はいい意味でもそうでなくても波乱に満ちている。それらがこの乱調の俳句に反映している。それは子規の喀血と入院からスタートしたものと言ってもいい。
 二月には母危篤の報を受け松山に帰省している。結局母はその翌年の十一月に死去することになるが、一時は持ち直しその直後の結婚ということになる。
 明治三十一年には長女の眞砂子が生まれる。「ホトトギス」も虚子が主宰となり東京に移転する。十月十日に刊行。通巻では第二巻第一号の発行となるわけだ。
  余談だが、いと夫人は筆者の曾祖母になる。長生きであったため記憶している。おそらく小学校低学年のころ鎌倉の虚子庵に行っては会っていた。そのころすでに足腰が悪く炬燵に座っていた記憶しかない。固くてつんつんと立った白髪が印象的でちょっと怖かった。ひいじいさんの部屋に行ってごらんお化けが出るからなどと脅かされたのを覚えている。
  掲句は、虚子が妻帯し子供もできていよいよ大人の自覚と俳句の自覚が等量となった初期のころのもの。しかし、それにしてももの哀しい。
 五月に発病した大腸カタルでの入院生活によるものか。あるいは、前年の母「柳」の死去によるものか。二十六歳の青年実業家の幻想的でナイーブな美しい俳句である。
 蓑虫の句は虚子に少なく、明治三十八年に弔句として、
  蓑虫を養ふ記あり逝かれけり   虚子
 が見える程度である。この句もまた哀しい風景に彩られている。
 蓑虫と虚子は蓑によって庇護されてきた蛾の裸の幼虫と、親や子規によって庇護されてきた虚子との位相にある。
 明治のモラトリアム青年は、「蓑虫」という季題を生死や離別のひとつの記号として意識ていたのかもしれない。

 
(c)Toshiki  bouzyou
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