第4回 2010/02/02

  高濱虚子の100句を読む     坊城 俊樹




   子規逝くや十七日の月明に   虚子  
    明治三十五年九月十九日未明

 虚子と、子規の晩年の数年間のことを書く。

  蛇穴を出てみれば周の天下なり  虚子  明治三十一年
  亀鳴くや皆愚なる村のもの        明治三十二年
  遠山に日の当りたる枯野かな       明治三十三年十一月二十五日
  美しき人や蚕飼の玉襷          明治三十四年

 明治三十年以降における虚子の著名な作品を列挙した。そして、子規が死ぬ明治三十五年までとした。子規最晩年の生き方が虚子の俳句にどのような影響を与えていたのであろうか。

 虚子は明治三十一年に編纂した「俳句入門」という本の中で、
○初学の程は又可成主観的の句を作ることをせず、客観的の句則ち絵画的の句を為すを最も安全の策となす・・(デッサン的客観写生)・筆者注
○多少熟したる後には、幾らかの主観を交へてなんどとしやれたがるに至るべし・・(主観的客観写生)
○始めは偏狭なる主観的の句、殊更に理屈的の句を喜び・・(主観写生)
○漸く其の句、陋醜なることを悟りて此の境界を脱する。前きの反動は俄に主観的の句を排して客観的の句を喜ぶに至り・・(客観写生)
○又漸くにして客観の単調に飽くや、主観を交へ用ゐて融通自在ならんとするに至る・・(客観描写あるいは主観描写)
 と言っている。
 筆者の注釈は、その後の『俳句読本』などに書かれていた、虚子の謂う客観写生の変遷を筆者風にアレンジしてあてはめてみたもの。
 明治三十一年、二十五歳の虚子はこのころにすでに自身の客観写生論の根幹を提唱しているように見える。
 では、どの句がどれに当たるのか。

○主観描写・・蛇穴を出てみれば周の天下なり  明治三十一年
○主観描写・・亀鳴くや皆愚なる村のもの    明治三十二年
○客観描写・・遠山に日の当りたる枯野かな   明治三十三年十一月二十五日
○主観的客観写生・・美しき人や蚕飼の玉襷   明治三十四年

 すこし甘いか。
 もっとも、子規逝くまでの代表句ばかりを列挙したのだから当然かもしれぬ。しかし、驚くことはこの若き俳人は子規逝く前にこれだけの名句をのこしていることである。
 おそらくは虚子の俳句人生八十五年間の基本はこの時期にほぼ形づくられたと見ていい。それは、一俳人としての作品形成のことであって「ホトトギス」のような組織形成はこの後のことになるが。

 子規逝くや十七日の月明に    虚子      明治三十五年九月十九日未明

(ここにおいては、子規死去の九月十九日の未明の句とした。たしかに子規の死直後、その死を碧梧桐たちに知らすべく子規庵の門を出れば旧暦十七日の月あかりがあったと記されている。『年代順虚子俳句全集』ではその句の傍らに小さく「二十一日、田端大龍寺に埋葬」と書かれていたので、句をまとめたのはその日かもしれない。)
この句に到達するまでの虚子の変遷の作品を長々と書いた。それらは、ほんとうの俳人としての自覚が成立するまで紆余曲折の苦悩の時であった。そして、その意味で金字塔の俳句作品群であったからである。
 そしてこの弔句も名句のひとつである。
 はたしてこの句は、「客観描写」なのか「主観描写」なのか、あるいは「主観的客観写生」なのか・・・・
  
 明治三十五年九月二十五日は虚子庵例会の日であったという。
 しかし、虚子は子規の初七日にあたるため句会は開かなかった。東洋城、杏人らとともに市ヶ谷から汽車に乗りで板橋で降りる。
 秋の野を二里ほども歩いて大龍寺の子規居士の墓に詣で、やがて門前で散会したという。


(c)Toshiki  bouzyou
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