第5回 2010/02/12

  高濱虚子の100句を読む     坊城 俊樹




   秋風や眼中のもの皆俳句   虚子  

  明治三十六年十月『ホトトギス』第七巻第一号のうち「秋雑詠」五十六句を出す。そのひとつがこの句である。
 この他に『五百句』に掲載されている句は、

  友は大官芋掘つて之をもてなしぬ   虚子

 この二句が虚子自選句集の『五百句』に抜粋されている。共に、気宇壮大の風がある。
 このころになると虚子の俳句もかなりの数にのぼる。ある意味その結果がこの自信となってあらわれているのかもしれない。
 しかしこの句の背後にあるより重要なことは、この年に虚子は俳壇にたいして大きな事件を起こすことである。すなわち「温泉百句」論争である。
 その文章が発表されたのが、明治三十六年十月。当時の俳壇のほとんどが河東碧梧桐の俳句運動によって支配されている渦中の出来事であった。奇しくも掲出の句と時期を同じくする。
 「現今の俳句界」という文章がそれである。
 「今の俳壇は殆ど碧梧桐によって代表されてゐるといつてよい。現今の俳句界を観察するには殆ど碧梧桐君の一人の来を観察しただけで沢山なやうな気がする(略)新奇な材料、新奇な語法は独り温泉百句の特色といふわけでは無く、近時の碧梧桐の句を一貫してゐる特色であるのぢや(略)大体に於いて趣向を異にしてゐる為に鑑賞に値する点の少ないといふのは亦免れぬ處である。是れ温泉百句は碧梧桐失敗の作であつて卸て其欠点を多く暴露してゐるものといふ所以である。」
 虚子は容赦ない。
 今回に限らず、碧梧桐と碧梧桐派の作品は技巧に凝り、新奇をほこるようなテカテカとした駄句だと断定する。そのようなものが当時の俳壇を占めていることを嘆く。しかし、虚子自身の俳句は今やっと、俳壇山脈の五合目にたどりついたあたりであろう。やっと碧梧桐たちの俳句の尻尾が見えてきたのだ。それは俳句をおろそかにし、写生文にのめりこんでいった虚子のあせりの裏返しのようにも見える。
 つまりこれは批評というより、俳壇の覇者への挑戦状なのである。
 
  蔵持て農具もすずし温泉の宿   碧梧桐
  山中の温泉にすずしさの豆腐あり
  馬の子が温泉の町あるく涼しさよ

 現代では、伝統派のほうがこのような措辞をして俳句作りにいそしんでいるような。虚子は「温泉」という言葉を入れた連作を批評すると同時に、「涼しさ」といった季題の感性も、
 「『農具も涼し』の『涼し』といふ字は感じが乗らぬ。」として軽妙で技巧的な作風は、この温泉宿の質朴な野趣から遠いので嫌いだと言っている。
 ここもまた容赦ない。
 しかるに、虚子のこの時期の句は写生句としてのプロパガンダの様相を呈している。友も大官、自分も大家として邁進する。
 はたして、虚子の謂う「眼中」のものが秀句であるか、「涼しき農具」が秀句であるか、まだ論争は終わっていないようである。

(c)Toshiki  bouzyou


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