第9回 2010/03/09

  高濱虚子の100句を読む     坊城 俊樹




   桐一葉日当りながら落ちにけり   虚子     


 ゆったりと桐の一葉が日の中を落ちてゆく。午後の日であろうか、西日であろうか。ただ、ゆつたりと時間をかけて日当たりながら落ちてゆく。その間に時間は止まり、流れ、ただゆったりと一葉は落ちてゆく。ただそれだけである。

 明治三十九年八月二十七日。この句も「俳諧散心」の第二十二回におけるものである。
 このころまでの虚子の句は実は、かなり主観的というか、物語的な宗教的ロマンティシズムを加味した俳句が多い。
 それはおそらく、明治三十七年あたりから東洋城たちと、比叡山、摩耶山、高野山などの聖地をめぐる旅の影響もあったかと考えられる。
 しかし、その東洋城の名前もこの年あたりまでであってやがてその蜜月の日々は終焉にむかうことになる。その魁けとなったのがこの作品ではあるまいか。
 その後のことであるが、東洋城は虚子たちのいう写生的俳句よりもやがて芭蕉的な俳諧の心を重んじるようになる。「俳諧散心」では、その初期の半分は虚子の句にもそのような風味を持った句が多い。
 しかし、ここに来て虚子自身の目覚めである写生俳句への道が見えてくる。そして、おそらく一生一代中のもっとも先鋭ともいえる代表句であるこの作品が輩出された。

 ところで、そのころの虚子は、俳句よりも文章のほうに熱を上げていたといえる。
 明治四十年にかけて、「風流懺法」「斑鳩物語」「大内旅館」などがつぎつぎに発表される。その時期こそが「俳諧散心」の俳句活動と小説の活動とがだぶっている時期である。 明治三十七年ころに端を発した俳句のお遍路修行。とくに比叡山延暦寺の横川中堂における滞在中、主に文章の修行をしたことによる影響がこの時期に大きな影をおとしている。
 そして掲句の誕生である。この句は「俳諧散心」の句であるから「桐一葉」の兼題の句である。同日のほかの句には、

  僧遠く一葉しにけり甃       虚子
  門を入れば一葉しにけり高山寺

 ともに、叡山や高山寺をふりかえって作った作品であると見ていい。それは、虚子の文章修練の間にいつのまにか、心身で悟った写生の境地であつたのではないだろうか。
 そして、特に比叡山延暦寺における最澄とのかかわり。すなわち、天台宗による大乗仏教観がおよぼした影響ははかりしれない。こうして、虚子にはひとつの宇宙とよばれるものを作ってゆくプロローグが出来上がっていったのである。
 「四季堂」とよばれる別院が横川にある。なんとも俳諧味のある名前だが、ここに滞在すると夜の漆黒の中に虚子の声が聞こえてくる。それは満天の星月夜から降ってくる桐の一葉の声と重なる。
 


(c)Toshiki  bouzyou

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