第12回 2010/03/30

  高濱虚子の100句を読む     坊城 俊樹




   霜降れば霜を楯とす法の城   虚子
                                     大正二年一月十九日

 虚子三十八歳。
 男子として、いちばん壮健なる時代なはずであるが虚子はそうでもなかったようだ。腸チフスの病み上がりとでもいう病魔に襲われている時期であった。ましてや、碧梧桐との俳壇における対立にも悩まされていたことはないとは言い切れないころのことである。

 病臥のまま、数年ぶりに開いた俳句会の兼題句。
 字義のとおり「法(のり)の城」といえば、格式のある大きな寺院を思い浮かべる。あるいは、絶対な法にのつとった城、いずれにも法の楯によって森羅万象のあらゆる犯されるべきものを駆逐せんとした意志が城壁となっている。
 法とは「山川草木、鳥獣虫魚、森羅万象のことわり」への意志のことだろう。そしてその意志がこの句を貫いている。

 世間ではここに碧梧桐との俳壇をめぐるさまざまな事変にたいするメッセージ的な句であるといわれている。それはその一面はあるであろうけれども、少なくとも「ホトトギス」の繁栄云々にたいする防御とプロパガンダという短絡的なものではないだろう。
  
 少し前の句になるが、

  木枯や水なき空を吹き盡す    碧梧桐  明治二十六年
  花吹雪狂女の袖に乱れけり    虚子   明治二十六年

 この句をくらべて、大岡 信氏は『子規・虚子』の中で、碧梧桐の鋭角的な写生句にたいして、虚子の鈍角的に模糊とした作風といっている。
 そして、ふと碧梧桐を下村観山とすれば虚子は横山大観ではなかろうかと推測している。

 私はそれを読み、むしろこの時点では碧梧桐は狩野探幽であり虚子は伊藤若沖ではなかろうかと思った。
 狩野派といえる二人の画家は、実はその筆の先の宇宙観が下村観山と横山大観と比べて何光年も異なる方向へ向いていたような気がしてならない。それは、両者の花鳥画などを見比べてみるとよくわかる。
 虚子はこのころあまりにも奇想的であり、碧梧桐はあまりにも写実的である。このまま行けば、虚子は伝統派などとよべる俳人にはならなかったはずである。

 その大転換は何故にしておこったのであろうか。
 それは、その大転換はおこらなかったのである。

 虚子はその奇想の情念のようなものをいちど脱構築し、そのままその本質をオブラートで包みながら写生句へと進む。碧梧桐はその正統な写実のようなものをいちど脱構築し、そのまま超写生句へと進む。
 やがて月日は巡り、大正期の碧梧桐は無中心による、利己的な写生というものに達し、虚子は無意味による写生というものへ変質していったのではないだろうか。
 そう、ここで碧梧桐は伊藤若沖となり、虚子は狩野探幽となったのではあるまいか。
 これが見た目の逆転であって、無中心はすべての自然に拡散するため季題を必要としなくなる。無意味はすべての自己が消されて自然そのものとなりすべてが季題となる。
 
 掲句がその二つの概念の対立を象徴したというのは、先に申し上げた通り簡単なものではない。
 いつでも、後世の弟子たちは(たとい芭蕉における十哲だけでなく正統派を自称するあらゆる者たち)勝ち組となったばあいにこのような句を持ち上げて、一派の勝利宣言のような俳句にしてしまう。俳句をプロパガンダとして堕落させてしまう。

 俳句とはもっと崇高なるものとしてこの句を、碧梧桐に捧げたいと思う。いわんや虚子にさえ。
 
  



(c)Toshiki  bouzyou

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