第15回 2010/04/20

  高濱虚子の100句を読む     坊城 俊樹




   囀や山かけて売る土地広し     虚子 
                                    大正二年二月十八日

 「春風の」の句から一週間後の句である。先の熱血漢たる心意気とくらべればなんともゆるゆるとした報告句のような感じがする。
 虚子も言って居るが、当時の鎌倉によくみられる風景だそうだ。売り地には後ろの脊山が付いてくる。たしかに、現代も鎌倉のやや内陸の豪邸などはかならず低い山を背負っている。虚子の墓所のある寿福寺なども源氏山と称する低い山にかこまれている。だからその脊山を穿って作った虚子の墓を矢倉という。
 ところで、「囀」という季題が上五に「や」の切れ字と接続して乗っているが、効果はいかがであろうか。
 動くと言えば動く。
 しかしその信奉者たちは、鎌倉だから特別である、囀る春の鎌倉の山間のふんいきが出ている、と言うだろう。しかしやはり動く。と言うより、とつて付けたような季題に見える。
 虚子は『年代順虚子全集』で弁護している。これは「雨村庵俳句会」の作で、水巴なども参加したが途中で急用ができ退席した。わずか一時間の句作でまことに残念であった。と言っている。まさに負け惜しみ。
 
  よき調度枕上なり夜半の春    虚子
  僧一人交りて春の宵集ひ

 このときのその他の句。とれも一抹の不安が残るようなできばえである。まあ一時間の句作なのであるから聖人虚子といえどもいたしかたないのであろう。
 しかし、つい先日「春風の」を世の中に咆吼した俳人としての心構えというものはこれでいいのだろうか。慶應だかしらぬが、若者諸君のために近代俳句を踏み越えて大正ロマンチシズムの俳壇を背負って立つ男の句としてよいのであろうか。

 同時に大いに疑問の残る「囀」の斡旋である。よく俳人の言う、
「だって本当に囀りしてたんだもん」という論理に近い気がする。たしかに、鎌倉の売り地ちかくで囀ってはいたのだろう。

 ここで思われるのは、このときまでの虚子俳句とはやはり客観写生的でないものが多かったということだ。
 すなわち「春風の」が最後のスローガン的な俳句としてみとめられるのではなかろうか。むろん明治期においてもなかなかの写生句を残してはいるが少ない。
 ゆえに、初期の主観写生時代と申すのは「春風の」の句あたりまでと言ってもいい。
 この句はたいした句ではない。しかしがある意味架け橋のような句である。その後にいよいよ始まる写生時代の道しるべとなる。そう考えると、この句の不出来具合は愛嬌があり、力も入っていないなかなか味のある句ではなかろうか。
 余談だが、「僧一人」の句を虚子は平安時代の句としてもよいと言っている。女官や公卿が集まっている集いに僧が一人混じっている風景を想像せよというのだ。
 しかし、なんともとってつけたような詭弁に感じなくもない。それもまたご愛敬かもしれぬ。




 

(c)Toshiki  bouzyou
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