第18回 2010/05/18

  高濱虚子の100句を読む     坊城 俊樹




   一つ根に離れ浮く葉や春の水     虚子 
                  大正二年春  虚子庵句会

 いよいよ虚子の客観写生の時代へと入る。
 むろん、明治期における写生の句にも粋を凝らしたものもあるが、ここに来て「桐一葉」とは異なるデッサン的な純客観写生とよべそうな作品が登場してくる。
 作成年月日は「春」としか『五百句』に記されていない。この時期のすこし前に作られた句に、

  俳諧に日々腐つ身を布団かな    虚子  『五百句時代』

 これは一月十九日の作。直前の冬にこのような体調を崩し、やがて「春風」の句を得るように病状の少なからずの回復基調、というより精神的な回復基調がこの一連の句を得たといえよう。
 客観的なる写生、微細な写生はむしろ健全な精神に宿る。そして、その精神が俳人としての自信に伴い、心象的な作品を凌駕するのだともいえよう。
 句意は明瞭なる発見。
 水面の葉がふたつ離れて見えていたものが、ふと水面下を見ると一つの根に同根であったその発見。春の水の生命力の芽生えのようなものの写生。
 あくまで、句としてはそこまでの季題の写真化にとどめている。しかし、虚子の句としてそのようなデッサンを純粋線で描いた過去、すなわち明治の作品はあまりない。
 少し似ているものとすれば、

  長き根に秋風を待つ鴨足草       虚子    明治三五年、

 しかし、「待つ」という措辞にやはり主観が乗っている。それはそれで味を出しているが、デッサンの微細さと王道からすればはずれる。
 「此年九月十九日、子規没」と添え書きにあるので、やはり秋風を待つという気分がそれと関連する。鴨足草を子規のことと擬人化するのはあまりにも陳腐な解釈であろうが、何か主観を入れずにおれない虚子の心情が客観の写生をにぶらせている。
 
  一つ根に離れ浮く葉や雲の峰     トシキ

 季節は異なるが、ひとつの技法として見たならばあえて「春の水」をまで言う必要は無いとして改作。
 一変、取り合わせの句として「や」という切れ字で惨殺してみた。かなり切れすぎで、動き回るような季題であるが、純粋写生がいまいちという現代俳句ならこういう作り方をするほうがなんとなく迎合されるかもしれぬ。
 だからこそ、そのような戯れ言を超越した虚子の句のすごさというものがわかるのではないか。


 

(c)Toshiki  bouzyou
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