第19回 2010/05/25

  高濱虚子の100句を読む     坊城 俊樹




   舟岸につけば柳に星一つ     虚子 
                  大正二年

 「柳の句を作る間心はいつも朝鮮平壌の大同江畔に飛んだのであった。此二句の如きは必ずしも大同江に限った景色といふではないが、ヒントは其処から得て来たのであった」
一連の句に次もある、

  柳暮れて人船に乗る別離かな  虚子

 かならずしもエポックメーキング的なあるいは、モニュメント的な俳句とは言えない。むしろ平坦な雰囲気を持つ。
 しかし、虚子は「朝鮮」という長編の写生文(小説というむきも)を明治四十四年に書いている。実際に同年の四月と六月に朝鮮を訪問し、黒竜江沿いの「お牧の茶屋」などを訪問したりした。大陸の雰囲気がいたく印象的だったようで、七月にこの長編を書いている。
 掲句は、それらをふまえてその後に作られたものだろう。
 もっとも「朝鮮」は長いばかりで、お世辞にも「文章には山が必要」という山会の美文の要件を満たしているとは思えない。すこぶる平坦で眠くなるような文章が続く。朝鮮半島の広大な平原を描写したのだから山などいらなかったのかもしれぬが。
 俳壇復帰をした年であるから、そちらが重要。ここいらで一度筆を折ってしまうという疲労感もまんざらしないではない。
 「山会」は明治三十三年に発足している。その後、「叡山詣」(明治四十年)、「斑鳩物語」(同)、「風流懺法」(同)などの佳作を発表しているだけに惜しい。山会から七年もたっていて、この内容では三十歳前後の若者としてはやや物足りなく思う。
 もっとも、明治三十八年に「吾輩は猫である」が出てしまった虚脱感はあったはずだ。それが尾をひいたのか、大正三年以降は虚子の文章は逓減してゆく。
 健康等の諸事情はあったにせよ、一番は「やる気」の逓減であったのかもしれない。

 この句はしかし大陸的な、そして中華・モンゴルの大地を思わせる大きな雰囲気は持っている。平明であるが、奥深い漢民族とモンゴロイドたちの好みそうな匂いも漂う。虚子本人もわりと気に入っていた句だと思う。
 と言うのも、実はこの句の半紙の大きな揮毫が我が家にあるのである。正式には、虚子から坊城家に寄贈されたものであろう。
 かなり、大ぶりな虚子の字はなかなか見応えがある。
 「星」という字が読みにくくて閉口したがかなりの力作である。いくつかこの句の揮毫を親族の間でも見たことがある。虚子の思い入れとは家族との関係にある。愛の句なのであろうか。
 そこに虚子のロマンティシズムを感じるのは、あまりに身内贔屓であろうか。
 
 

(c)Toshiki  bouzyou
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