第30回 2010/08/31

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹




   或墓のくすぶり見えぬ彼岸かな    虚子 
                 大正十五年三月二十日前後なるべし

 近詠として「ホトトギス」十月号に掲載。
 この句だけでは、その或墓というものが何にくすぶっているのか少しわかりにくい。しかし、彼岸のころであるので香煙かなにかであろうかと思っていたら次の句もあった。

  手に持ちて線香売りぬ彼岸道

 線香売りというものが当時いたらしい。鎌倉のどこかの寺か東京のどこかはちょっと判明しないが、大正時代の最後のころの風景であったかもしれない。
 実は、その前月の二月二十日に虚子の師である内藤鳴雪が亡くなっている。そのときの弔句は、

  寒牡丹落ちてくだけし思ひかな   虚子

 本来はこの句をして掲句とすべきであろう。しかし、その直裁的なる哀悼の句を書くにはあまりにも付きすぎのような気がした。
 句意としても、すべて語っていて鳴雪翁の白い髭と威厳ある顔つきが寒牡丹と重なってしまう。あるいは、その華やかにして剛毅なる明治の男の最期の姿があまりにもみごとに写生されていすぎる。
 通夜には飄亭、肋骨、碧梧桐、鼠骨などのお歴々が集まっている。そこで句会をしたかはわからぬが、古い話になったのだろう。
 虚子はこのころ、俳句はしていたとしてもそれほど情熱的であつたとは言えない。五十三歳で病みがちであって、俳句の作句数もさほど多くない。なにか、俳句人生の真ん中あたりの中折れの時代のような気がする。
 俳壇に復活し、意気揚々と「ホトトギス」を刊行していたはずであるが、何かもの悲しい。
 唐突だが、わが坊城家の墓は東京の青山墓地にある。広大な公営墓地で宗教は問わず有名な人もたくさん葬られている。
 ある日、そこを拠点に俳句の吟行をしていた。我が墓から数十メートルのところに、おもしろい墓を見つけ写生した。それは、おそらくは宗教の教祖とその門下の墓であったろう。
 ただ一本の円柱が伸びているその墓は奇妙であった。こういうのが、宗教家の墓なのだなあと、ある意味で複雑な感銘を受けてそれを見つめていた。すると、足下に小さな花が咲いていたので、それに寄り添うような墓とともに目を向けた。
 すると、それこそが内藤鳴雪翁の墓であった。
 過去、数十年もこのあたりをうろうろしたこともあったのに、その可憐な花に導かれて翁の墓を見つけたとは・・・・
 隣の、豪華で奇妙な宗教家の墓とくらべて翁の墓の小さなこと。少し、傾いて墓参りの形跡は無い。鳴雪という人が明治の俳諧革新にどれほどの功績があったのかなどとくだんの宗教家たちは知らないことであろう。
 何か嬉しく、懐かしく私は手を合わせ、深々と礼をして去った。
 さて、掲句だが、その偉人の逝去後、初のお彼岸を迎えたころの句である。
 もっとも、この「或墓」が鳴雪翁の墓であるとは限らない。おそらくは別のものであろう。しかし、だからこそ虚子はこの或墓を見てそのくすぶる様に遠いものを感じたのではないか。
 遠いのは、死去から遠いのではなくて、死去から遡ったその人の人生の遠さである。それにかかわった自身の来し方の遠さである。虚子はそのようなものをくすぶっている香煙の先に見たのではないか。
 
 「此頃は小さき手帖に、俳句を作るに従って書きとめ置き、其手帖の皆になったるを境に、ホトトギス誌上に発表し、手帖は其まま反故籠に投ずることと定めぬ・・」
 虚子このころそのように書いている。
 虚子が句帳というよりも、ノートブックのようなものに俳句を書き付け、纏めた上で廃棄していたのは聞いていたが、この文章がその論拠。
 虚子はそのころから、明治と大正の人々との惜別を捨てることで昭和を迎える儀式のようなものを欲したのである。
 


 



(c)Toshiki  bouzyou
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