第33回 2010/09/28

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹




   春惜む輪廻の月日窓に在り    虚子 
                 大正三年四月十九日

 このころの虚子の俳句はいわば俳句人生への復帰後の意気揚々とした時期にあたっていたと思われる。
 しかし、このころに彼はまた子女を失う。

 「私の六番目の子、其は女にすると四番目に当たるのであるが、其第四女が、これは他の子供と違って少し月足らずに生まれたらしく、生まれ乍ら弱かった上に又例の肺炎にかかって、其結果脳も少し悪くしたらしく、三つになってまだ足も立たず首も据わらぬ位であったが、其が到頭梨の花の咲いている時分に死んでしまった。」
 四女の「六」が亡くなったのは大正三年四月のことである。
 この文章は、大正四年に『中央公論』に出た「落葉降る下にて」という文章からの抜粋である。
 ただ一人だけ知恵遅れ、そして虚弱体質の女の子を失う。
 現在の鎌倉にある寿福寺の虚子の墓の隣にある「白童子」の墓がそれである。「白」とは梨の花の色からきたものであろうか。
 
 「『相変わらず苦しそうです。少し見てやってください』と妻は言った。(略)が、此の時は正面に廻って最早其を見るに忍びなかった。私は又其儘又座敷の机の前に坐ってしまった。」
 「其が此の子供に限って、妻に一任して振り返らうともしないといふ事は随分残酷な事のやうに解されたであらう。又残酷なことかも知れなかったのである。けれども此時分から私には、もう死ぬるものを強ひて抱き止めやうといふやうなそんな熱は無くなりかけてゐたのである」
 とても残酷に聞こえる虚子の述懐である。

 掲句はその死と直接的関係があるのかは知らない。しかし、不思議な合致はやはりある。
 ただ、それらをナイーブに付け合わせるよりはむしろ虚子の俳壇復帰や日本の行く末などを詠嘆したものとすべきだろう。
 「六」のことは哀しくはあれ、輪廻の月日に諷詠するものではなかったであろうから。

 「『凡てのものの亡びて行く姿を見よう』私はそんな事を考へてぢっと我慢して其子供の死を待受けてゐたのである」 『落葉降る下にて』
 文章の最後にはこのような著述がある。
 この言葉は虚子のその後の俳句生活に大いにかかわってくる。それはさまざまな影響
俳壇にまで及ぼしてゆく。
 そういう意味でも、「六」の死は無駄ではなかったはずなのである。


(c)Toshiki  bouzyou
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