第38回 2010/11/2

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹




   何となくあたり淋しき爐を開く    虚子
                 明治二十四年十月二十五日

 前回の句に続いて、そのころの句をもう少し。
 この句の前書きに、「父の在さぬとて」と淋しい心情を綴っている。
 
  秋風の果はありけりかれすすき    虚子
  ほし足袋の枯木にぬるる時雨かな

 同じような寂寞の句がつづく。「秋風」の句は 、
 「木枯の果てはありけり海の音  池西言水(芭蕉門の江戸期の俳諧人)」
 に酷似しているので、はたして虚子の句として成立するかどうかはともかく、これらの寂寞感は察してあまりある。
 まだ、十七歳(数えでは十八歳)の虚子である。
 
 明治二十五年一月に虚子は子規に『飯が食へぬ』という文章を提示している。それにたいして子規は、
「『飯が食へぬ』といふ文章驚愕の外なし、乍失礼貴兄にこれだけの敏才ありとは知らざりき、貴兄恐らくは俳文を読み玉ふこと多からじ」
 と激賞している。
 この文章は、子規に与えてそのまま散逸したらしく、恐らく今日に残っていないかもしれない。しかし、察するに父が亡くなり、自身はまだ伊豫尋常中学の生徒であるゆえその心細さを書いたものだったのではないだろうか。
 もっとも、明治二十五年には中学を卒業し京都第三高等中学に入学している。すなわち後の京都大学。その後、碧梧桐とそこでいろんなことをやらかすのは有名である。
 とまれ、さまざまなことが多感なころの虚子の身辺に起こる。そして、それ以降の虚子は数奇な歴史の渦にまきこまれてゆくことになる。
 
 子規はこの二十四年の虚子の俳句についてはさほど認めていたとは思われない。むろん文章などもハナから気にとめていなかったであろう。
 それが、父が亡くなって年忌も迎えないころに、俳句よりむしろ飛び抜けている文章を見て驚愕した。裏を返せば、俳句にはたいした期待は無かったとも言える。
 掲句はともかく、二句目の「秋風」の句などは子規の苦虫を噛みつぶしたような顔が見えるようだ。ましてや、三句目の「足袋」「枯木」「時雨」の季がさなりは目を覆いたくなる。
 というより指導者の顔が見たくなる。
 
 もっとも、この時期虚子たちは子規を交えてか知らぬが、連俳・兼題・国名などの言葉を入れる課題・難題(前に示した)などに明け暮れている。
 雑詠、吟行による嘱目諷詠などはわりに少なかったのかもしれぬ。しかし、はたしてどれだけの原句がきちんと保存されていたかは不明であるので何とも言えないが。
 虚子たちはそれでも鼻高々に周りの者たちと俳諧の遊びに熱中しはじめたのであろう。

 愛すべき子規はもうあと十年間しか生きなかったのに。

 
 


(c)Toshiki  bouzyou

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