第41回 2010/11/23

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹




   流れゆく大根の葉の早さかな    虚子

        昭和三年十一月十日
        九品仏吟行、七宝会・家庭俳句会合同。
        立子、素十、たかし、長など二十数名
        「其の壱」

 九品仏の吟行であるから、現在の東京都下の世田谷は等々力渓谷のあたり。
 九品仏からさらにさかのぼって多摩川までいたる、としている。
 このとき、虚子ら一行は先ず寺で一句会をしてから、多摩川沿いの農道をたどってその支流に出ている。
 寺は九品仏のあたりでは浄真時が比較的大きいが、その一室を借りたのかもしれない。現在は奥沢のあたりで、道も農道のように碁盤の目のようになっているから、そこから等々力の方へ向かうのはたやすい。
 多摩川の支流が今の等々力渓谷を作る矢沢川であるが、現在それは環状八号線の橋架の下を流れている。むろん当時はそんなものはなく、おそらく延々と田園風景が続いていたのであろう。
 推測するに一行は、多摩川を平行に現在の等々力一丁目か二丁目あたりの等々力不動尊のあたりへ出たのではなかろうか。そこに、不動尊があるためにそこを目指して、やがて左折して多摩川の本流へも逍遙したのでは。

 ここで、虚子はふと小川に出たと言っている。
 もしかすると、その当時の矢沢川そのものがまだ細い流れで、それそのものを小川と見立てたのかもしれぬ
 ただ、現在の等々力渓谷はさほど川幅があるわけではないが、小川というほどのものではない。ということはそこへ流れ込む池か貯水池から来る小川ではなかろうか。
 地図で見ると、その池のようなものは等々力渓谷公園と不動尊の西側にいくつか点在している。そこからの支流のようなものではないか。
 はたして、この句が作られた川が矢沢川かその支流か、どのあたりかは明確ではない。ただ、等々力と野毛との間の多摩川寄りのどこかであったはずである。
 
 とまれ、そのころの農家から流れてくるもろもろのものを虚子たちは、その小川に架かっている小橋から眺めてこの句を得た。
 その流れの早さはそこそこ早かったわけで、それが不動尊あたりでいくつかの岩礁によってまた早くなり多摩川へ合流したと見るのが正解かもしれない。
 さて、この句の本来の意味はこのような地理をふまえた農と自然とのかかわりにある傑作として吟味されねばならないだろう。




(c)Toshiki  bouzyou
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