第42回 2010/11/30

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹




   流れゆく大根の葉の早さかな    虚子

        

 「其の弐」

 「其の壱」においてこの句の作成されたシチュエーションを見て来た。
 それは東京の当時片田舎であった、世田谷区の九品仏から等々力にかけての田園風景を諷詠したものであった。
 そのような風景は日本にゴマンとあったろう。しかし、何故そこなのかというと、そこにはちょうど手頃なる里と川、里山や渓谷などの箱庭的な日本美があったからであろう。
 そして、そこには同様な農村の平和な日々の暮らしがあったのである。
 
 「之を見た瞬間に今まで心にたまりたまつて来た感興がはじめて焦点を得て句になつたのである」 『句集虚子』
 このときの吟行会における逍遙のうちに溜まり溜まったものであったろうか。むしろ、それよりも虚子の数十年間の俳句生活に溜まり溜まっていたものではないか。
 「花鳥諷詠」をこの年に発表をした。
 虚子の俳句は明治時代の主観的・大正時代の客観的・昭和時代の主客混淆のものへと変遷してゆく。
 この句を得たのは、客観的な句と主観的な句とが融合する端境期である。客観的に流れてゆく大根の葉を見つめ続けてゆく。するとむらむらと沸き上がった主観的なもの、しかしそれは無意識的なもの、それを初めて諷詠した。
 客観と主観が混淆しようとしているのに無我の境地であったとでも言おうか。
 
 それまで、虚子の俳句の変遷とともに「花鳥諷詠」の論によってその境地は完成を見た。しかし、自作となると過去の俳句に曳きずられていたのか、完璧なる完成を見たとは思えなかった。
 それが、自然と自我が一体になる瞬間を虚子はここに俳句の言葉として捉えたのである。
 むろんその背後にあるものが、先に話した「ちょうど手頃なる里と川、里山や渓谷などの箱庭的な日本美」の存在であった。
 もし、此処が高山の冬の山頂であったらどうだろう。南国伊豫のやわらかな円き山々に育った虚子にとって、はたしてそのような原風景との邂逅となったであろうか。それは遭遇であって、とても、俳句に纏められるものではない。
 つまり、この川の上流に暮らす百姓たちが門川で取れたての大根を洗い、そして笑い、ある時は泣き、そのような日々の営みが、美しくも切々とこの句の舞台として用意されていたからこそ得た句なのである。



(c)Toshiki  bouzyou
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