第43回 2010/12/07

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹




   流れゆく大根の葉の早さかな    虚子

        

 「其の参」

 この句が昭和三年に提唱された「花鳥諷詠」の代表句であることは言を俟たない。
 何故か。
 花鳥諷詠とは、花鳥を諷詠するのだが、そこには客観写生という態度が必要となる。
 それは、初期のデッサンのような写生から、一時期、主観の写生へとなり、やがて客観写生の到達点として客観描写へといたる。
 この客観描写とは、対象物、特に季題を写生するのに及んで作者は其れと同一になってゆくというものである。
 じっと深くその対象物を観察し、それをいかに諷詠しようと精神をととのえてゆくと、その季題はいよいよ親しくこちらに囁いてくれる。そして、作者はその中にまるで吸い込まれるように入り込んでゆくというのだ。
 川崎展宏はこの句においてそれを別の言い方で、
「自然の呼吸と虚子の呼吸が一つになったような無私の状態であっ」たと言っている。
 この句の場合は、大根の葉という季題が代表されるこのような田園の人里の自然と、虚子の自然とが合致し、まるで空気を呼吸するように融合していったのである。
 そして、そこにおいて花鳥諷詠句としての最高峰は確立された。

 しかし、何故「流れ」「行く」「早さ」などの説明的な動詞をこれほども重ね合わせたのであろうか。
 私は、それは虚子の無我の子供返りと思って居る。
 
 作家として大成しなかった虚子は、ある意味で語彙は貧困である。それがために、大きな感興が生じた際に、むしろ純粋な措辞の平明なる言葉しか出てこなかった。
 「ああ、流れている」、「行くばかりだ」、「早い、とても早い」
 このような、稚児のような言葉が、無私で・真っ白で・純粋な虚子の頭の中をそれこそ流れるばかりではなかったか。
 その透明なエクスタシーこそが、虚子の謂う客観描写の到達点であって、その時虚子はまちがいなく大根の葉に含有されていた。
 
 そこには伊豫の田園や、来し方の人々の暮らしや、もっといえば日本の美しい自然が一瞬のうちに大きな劇場となって、虚子の無意識の内に押し寄せていたに相違ない。
 


(c)Toshiki  bouzyou
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