第50回 2011/2/8

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹




   春潮といへば必ず門司を思ふ     虚子
          昭和五年三月
          日不明

 昭和五年までに虚子は幾度も門司を訪れている。
 松山に帰省する時、九州別府に向かう時、あるいは朝鮮にわたる時などに門司を通過するか、投錨している。
 もうひとつ、虚子の胸中に去来するものとして、明治二十九年に漱石が赴任地の熊本へ向かう松山から宇品に着き、虚子と宮島に一泊、広島で虚子と別れ、汽船で門司に向かった件があったろう。
 松山に残された虚子、新天地へ向かう漱石との惜別の港であった。
 虚子にとって門司とは、単なる港であるわけでなく、何か事を起こすときの門出となる起点であった。それが故に門司を思うわけである。
 しかし、関門海峡の春潮とは歳時記的なそれとくらべて激流であることが多い。特に巌流島から門司あたりの沿岸にかかる潮は速い。
 その速さこそが、虚子にとって人生の節目の時の激流を予感させるものであったろう。
 
 当時の虚子は鎌倉の由比ヶ浜に居をかまえていた。由比ヶ浜は現在も潮の流れのない、ゆつたりとした小波が寄せる浜である。
 とろんとした鎌倉の気候にくらべて、潮目のきつい海峡は虚子にとって、そこから世界へ続くまさに「関門の海峡」であったはずだ。

  春潮にたとひ櫓櫂は重くとも     虚子
      昭和二十年二月十五日
       年尾長女中子、興健女子専門学校に入学の志望あり。試験を受く。


 筆者の母である坊城中子は、昭和三年に生まれ、興健女子専門学校すなわち現在の聖路加看護学校の前身である東京の専門学校に旅立った。
 それへ向けての贈答句である。
 中子はそこに入学し、やがて看護婦の道を歩む。虚子の孫として、女性の社会進出がめずらしい時代に、働く女としての魁けとなる祖父の不安もあったろう。
 やはりここにおいての「春潮」も鎌倉の潮のような御し易いそれでなく、門司の激流の春潮を想定していると思われる。
 「重くとも」頑張って乗り越えてゆかねばならない。という、厳しくも暖かい祖父の慈顔が見えてくる。
 それは、同時に虚子の脳裏に過ぎった、数々の過去の人々の跫音であった。
 


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