第56回 2011/3/22

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹




   石ころも露けきものの一つかな     虚子
      昭和四年八月十九日
       風生電気局長就任、京童帰朝、祝賀会。折柄ツェッペリン伯号来る

 先の「ツェッペリン飛び来し」の句と同日のもの。
 その当時の最新のツェッペリン号の俳句とともにこのような素朴で重大なる句を、同じ句会に出されていることに驚く。
 『五百句』の中でも、ことに有名な句である。
 
 この句について、息子の年尾は次のように言っている、
「石ころも生きてくる」
 「昭和時代十年間の虚子作品から取り上げるならば、明治時代の分とはかなり句の姿が変つて来てゐることに気がつく。(略)この句もまた私が俳話をする時によく取り上げて、石ころのやうなものでも俳句の対象として取り上げる時には生きて来る。又露に濡れた石ころを見て、秋の深みゆく姿を感じ入るところに、人生観的感情を得るのであると述べて居つたことを、虚子は月並的であると私を訓してくれたものであつた」
『定本高濱虚子全集』解説

 年尾にとって、「石ころ」が花鳥風月の四季諷詠のための要素であるばかりでなく、人生観との重ね合わせがその余韻になっている。
 明治のころの句の姿と昭和の初期十年間の句の姿は異なるというが、虚子の句はより写生的になったということか。
 むしろ年尾は「客観写生」「花鳥諷詠」提唱後の虚子の句でも、表現的に単なる写生句より、自然界にあるすべての有情のものとして、人間を含めた、大きな句を取り上げて言っている。
 年尾の好みと言っていい。
 筆者もまた、この句に関してはそのように感じる者であるが、虚子はそれをあくまで「月並」的な鑑賞であるとした。
 しかし、虚子の謂う「天地有情」という観点からも、この句は現代の伝統派がよく使う、通俗的で安っぽい措辞の「の心あり」「といふ命あり」などとは根本的に異なる広遠な句と思うのだが。
 
 この句をあえて取り上げたのも、大震災の現場にある石ころの映像を見たからである。その被災地にある石ころは只の石ころではない。
 甚大な被害と、多くの被災者の命を奪った大地にころがっていた石ころである。
 この句を思い出さずにはいられなくなる石ころであった。



(c)Toshiki  bouzyou


 
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