第59回 2011/4/12

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹




   筋塀に添うて下向の桜かな     虚子
        昭和七年四月十三日
        石田旅館
        山科勧修寺


 筋塀とは、築地に白い横線が入っているもの。もともとは御所や門跡の格式のある寺院のためにある。
 その高雅な塀から垂れ下がっている花の房を言っているのだろうか。下向という言葉は都から地方へ下りくだって行くことも言うようであるから、格式の高い桜の塀をゆるゆると下界へ戻って行く一行の様かもしれぬ。

  筋塀の上につき出し桜かな   虚子
  筋塀の高きが上の桜かな
  筋塀によりて仰げる桜かな

 『句日記』によると同所において、同じような句が四句もある。
 どれも、ひとつに纏めればよいようなものだが、微妙な写生の動きが見えている。一句目で少し離れたところから見た写真的な桜。二句目でその塀の上に高くある桜の様子。三句目で塀に寄り添って見上げると高雅な雰囲気の桜かとも。
 掲句では、その中にも下界へ向いていると思われる花房に気付く。あるいは平俗の身たる自分に向いている花ではあるまいかと。
 この連作で、ただの桜であると思って居たのが、だんだんと格式のある花に見えてきたという心情が潜んでいる。

 山科勧修寺は坊城家の祖たる藤原高藤の菩提寺。高藤の娘の胤子のために醍醐天皇により建立された。胤子は醍醐の生母であった。
 実は、高藤が若き頃、鷹狩りをした際、たまたま一夜をともにした宮道列子という女性に一目惚れする。そして、生ませたのが胤子だといわれている。  『今昔物語』より
 高藤は父の藤原良門にだいぶ叱られたようだが、なかなかやるものである。
 虚子は四年前に生まれた孫娘がその末裔に嫁ぐことになるとをを知ってか、知らずか、無心にその花を見上げている。

 詳しくは、下記を参照のこと。

昌泰3年(900年)、醍醐天皇が若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めたもので、胤子の同母兄弟である右大臣藤原定方に命じて造立させたという。胤子の父(醍醐の外祖父)藤原高藤の諡号(しごう)をとって勧修寺と号した。 「ウィキペディア」



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