第62回 2011/5/3

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹



   凍蝶の己が魂追うて飛ぶ     虚子
        昭和八年一月二十六日
        丸之内倶楽部俳句会


 冬ともなると、まれに生き残っていたような蝶を見ることがある。
 ふらふらと、あるいはゆらゆらと飛んでみてはまた落ちる。もう、秋の蝶の末裔ともおもえないくすんだような色を見せて、やがて死を迎える。
 昆虫学的にそのような種類の蝶がいるとは書かれていない。あくまで、冬まで生きながらえた蝶のことである。
 この蝶はあたかもその飛翔の先にある自身の魂を追って行く。それに追いつかないときには死を意味する。
 この句を詠むと、いつもつぎの句を思い出す。

  冬蜂の死にどころなく歩きけり    村上鬼城
   大正六年『鬼城句集』

 これは蜂だが、同じように死を迎える寸前の景。その死に場所をうろうろと歩き回って探している。蝶は飛ぼうとするが、地蜂らしき蜂はただ歩く。もはや飛ぶ元気はない。
 鬼城の代表句だが、虚子はこの句を、次のように言う。
「人間社会でもこれに似寄つたものは沢山ある。否人間其物が皆此冬蜂の如きものであるとも言ひ得るのである」
 どうもこの句評には賛同しかねる。
 たしかに、身体に不自由なものを持っていた鬼城ではあったが、蜂の擬人化と、人間社会への倫理や洞察をここに句評にするのは、虚子らしからぬ月並みな評だ。

 掲句にしても、けっしてそれを老残の死にゆく者への挽歌とは言わないはず。あくまでの写生の延長にあることは、虚子の句も鬼城の句も同様ではあるまいか。

  凍蝶か凍蝶の死か吹かれあり     俊樹

 拙句もまた、これが人間の死生論云々などということはなく、単に冬の蝶の最期の姿態を諷詠したに過ぎぬ。
 だから、「をり」でも「けり」でもなく、「あり」というそのままの状態をしか写生していないのである。
 
 


(c)Toshiki  bouzyou



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