第71回 2011/7/5

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹




   川を見るバナナの皮は手より落ち     虚子
        昭和九年十一月四日
        武蔵野探勝会。浜町、日本橋倶楽部。
        

 虚子の句の中で一、二を争う「意味の無い句」。
 意味が無いというよりは、意味を追わない句として二十一世紀の俳句に影響を及ぼすと筆者は考えている。

 ところで昭和九年十一月十五日に虚子の『新歳時記』虚子編の初版が出ている。この歳時記にも項目として「バナナ」が掲載されるが、当然のことながら掲句は掲載されていない。

 「夏期の生食は広く好まれる。腐敗も早いせいか、夜の街頭で、夜涼の人々に向かつて特異な投売りが展開されたりする」
 と解説にある。
 バナナのたたき売りのことである。一種のパフォーマンスだが、バナナの腐敗が早いためにデパートの地下のような安売りをするのだとは知らなかった。
 
  舷梯を追戻されぬバナナ売        白汀

 その例句に「台湾所見」とある。
 この場合は、大きな船のまわりに、現地の男や子供たちがカヤックのような舟でたむろして、バナナを売りつける様子が見える。
 なんとも南洋の風景であるが、虚子の歳時記にもろもろの南洋季題が出てくるのは、虚子たちが渡欧した昭和十一年以降の版となる。
 しかし、南洋季題はかならずしも一般化せず、そのまま消えていったものもある。

 掲句の意味は、それこそ無いように思われるが、ある意味で難解。川を見ている男の手の中からするりと食べたばかりの皮が落ちた。
 無意識のうちに、バナナは手から離れ、あるいは川の中に落ちて流れて消え去ったのかもしれない。
 それのどこがおもしろいか。シュールな光景か。
 それは、尾崎放哉の「墓のうらに廻る」というような無軌道且つ深淵なる短詩に通ずるものがなかろうか。
 無意味に思われる行動、それに無意味なバナナの皮の存在。しかし、それらは放哉という存在そのものの証明であり、バナナの抜け殻から想像される中身の証明と、南洋そのものの証明であり、ともに季題を超える大いなる意味を持つ。
 アイコンとしの放哉を立証し、アイコンとしての虚子イコール季題を立証する試みとして二十一世紀の有期定型俳句への銅鑼が鳴る。





(c)Toshiki  bouzyou






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