第75回 2011/8/9

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹


【遍路の句 その2】

   道のべに阿波の遍路の墓あはれ     虚子
        昭和十年四月二十五日
        風早西の下の句碑を見、鹿島に遊ぶ。
        松山、黙禅邸。松山ホトトギス会。

 虚子の遍路の句にはいつも純粋なる叙情がある。
 その後のこの墓は、間もなくして撤去されてしまったといわれいている。何故なのか知らぬが、無粋なことをしたものである。
 現在も遍路の墓がこのあたりにあるようだが、別物であるという。
 この遍路が男か女かと問われれば、女であるような気がする。この西の下の土地は虚子の育った土地であり、当時やさしい母の背に負ぶわれていた追憶の景色である。
 しかし、この句を見るとどうしても思い出さねばならない句がある。
 
  此松の下に佇めば露の我   虚子
     大正六年十月十五日
     帰省中風早柳原西の下に遊ぶ。
     風早西の下は、余が一歳より八歳郷居せし地なり。
     家空しく大川の堤の大師堂のみ存す。其の堂傍に老松あり。


 大正のころも、ここ西の下は虚子の原点であり回想の土地であった。
 供に有名な句だが、掲句はこの「露」の句碑のことを題材としている。だからこの句には「遍路」という春の季題が、墓を詠っていることでわかりにくい。
 すなわち、虚子のこの句は四季の変遷というよりも、人生の変遷のことを諷詠しているのではなかろうか。
 つまり、この二つの句によって、明治のころの幼少の虚子、大正時代のそれを追想する虚子、もう六十一歳になる巨人虚子の三つの時代と季節を諷詠している。
 これらの句は『五百句』に入っている。虚子の前半の生はここに一度、絵巻物としてピリオドを打つ。
  





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