第84回 2011/10/18

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹



   山川にひとり髪洗ふ神ぞ知る    虚子
        昭和十六年七月九日鎌倉俳句会。
        北鎌倉駅裏、中村七三郎宅

 とにもかくにも思い出すのは、泉 鏡花の『高野聖』の場面である。
主人公の最後に遭遇する、幻の乙女の沐浴の場面。それは異界のものであったろうか、幻想風景として掲句とだぶる。それを虚子が意識したかどうかはわからぬが、ここに髪を洗う女が現実のものなのか幻のものなのか。
 虚子という人はこのような幻想、あるいは霊魂のようなものを文章や俳句にすることはほとんどない。
 しかし、『虹』の三部作の「音楽は尚ほ続きをり」の中で、森田愛子の母の言葉として、
 「愛子病中に、こはい夢を見たさうです・・・首の無いものが、裾から入つて来て、冷い掌を自分の掌と合せた、といふことです」
 という部分があり、虚子もまた以前にこの福井の三国の「愛居」という森田愛子の家で目撃したという首の無い武者のようなもののことに触れている。
 虚子としてはきわめて異例なる場面である。

 掲句はそのような一連の不思議な世界を包含するように思えてならず、読者としてはこの句には何か特別のファンタジーとロマンスに裏打ちされているのではと考えてみたくなる。虚子としては異例なる句として。
 実はこの句、病床にいた愛子がかねてから虚子に所望して揮毫してもらい、その愛居の床の間に掛けていた。
 愛子は死ぬ間際に、この俳句をにらみながら。そして傍らにあった観音像もまたにらみながら虚子への感謝をつぶやいたという。

 筆者が主宰する「花鳥」の昭和二十一年二月号に愛子の「田芹」という文章がある。かつて虚子とともに歩いた、山川の思い出である。
 「郭公が鳴いて美しい山水がほとばしつてゐた。先生が芹をお摘みになつたのはどのあたりであつたのかしら、野道かしら、澤のほとりかしら・・・と今病床にゐながら考へてゐる。先生の芹をお摘みになる姿を想像してみる、浅間を描いてみる。それが私の楽しみである」
 はたして愛子は遠くはなれた小諸にいる虚子のもとで、あるいはひとり神のもとで、山川の水に浸かり髪を洗うことがかなったのであろうか。
 
 


(c)Toshiki  bouzyou





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