第87回 2011/11/8

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹


【番外編】

   天の川の下に天智天皇と臣虚子と    虚子
        大正六年紅丸にて九州に向ふ。翌朝別府上陸、小倉を経て二日市に到る。
        太宰府参拝。同夜都府楼址に佇む。懐古。

 虚子は郷里松山での兄の法事に出て九州に船で着いた。そして太宰府を参拝し、都府楼に佇んでいた彼は何を思っていたのだろう。おそらくは、かつて故郷の池内家に生まれ育ち、多くの兄たちに支えられここまできた感慨は大きかったろう。
 同時に、今このときは日本のために、そしてかつて天智天皇がこの地で唐などからの国土防衛をしたことにおもいを馳せる。その時虚子はいたたまれず、自身もこの天皇の一臣下として国を護ろうと思ったのである。
 虚子のこの懐古とはすなわち、故郷へ向かったあとのその余韻とともに、日本の歴史への懐古そのものを言っている。
 都府楼址は、礎石の柱の址がただ延々と続く。そこはだだっ広い空き地のようなもの悲しさである。夕刻には、かの有名な観世音寺の鐘が響く。それは千年を超えた虚子と天智天皇の君子の交わりの鐘の音であった。
 この句は『五百句』に、

  天の川の下に天智天皇と虚子と      虚子

と「臣」の字を削除して掲載されている。
 これは、昭和十二年刊行の当時、大政翼賛会設立前夜としての抑圧に屈したとしか言いようがない。虚子ごときが天智天皇の「臣」たるは何事ぞ、というわけである。
 しかし、仮に時代がそうだとしても、この句では本来の虚子の臣たる高揚感と意味が異なってしまう。ましてや、この句では天智天皇と虚子が並立に存在するが如きでよほど不遜ではないか。
 筆者および、その周辺ではこの句はあくまで掲句のような「臣虚子」であることに意味があるとして、あえて『五百句』の禁を犯した。
 もっとも、『五百句』でかように記されていたこの句は、昭和三十一年刊行の虚子自選の『虚子句集』にはすべて掲句のように戻されている。それが虚子のほんとうの心情であったことは明確である。
 ちなみに、都府楼址にある虚子の句碑もまた掲句の如きであったと記憶している。



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