虚子伝来
 坊城俊樹 空飛ぶ俳句教室俳句教室         vol.1  2007/04/08  

   はじめに

 これから俳句の入門編をおこなうにあたって、すこしお話があります。
 そもそも、日本という国に生まれてよかったと思っている方は多いと思います。かくいう私もその一人です。
 しかし、こんな時代に暮らしていると物も豊富で、それなりに不平や不満があるものです。贅沢なのですね。
 それはそれなりに理由はあるでしょうが、衣食住足りている人の方が圧倒的に多いはず。もし、食うこともままならぬ場合であれば日本に生まれてきたことを怨嗟の気持ちとともに否定するかもしれません。いわば泰平の世の中であろうかと。諸説によれば今のこの時代は日本において三番目の泰平の時代(パックス・ジャポニカ)なのだそうです。一番目が平安時代、二番目が江戸時代であるのだとか。
 人々は泰平の時代に文化を爛熟させます。と同時にちょっと退廃的なものが流行ったりもします。それは、特に江戸の天下泰平の時代をみればわかります。なにしろ三百年間も平和な時代が続いたのですから。みんな、芸事かなにかをやるのを考えてもおかしくはないわけです。そんなときに俳句の祖先である、俳諧が隆盛になったりします。
 つまり、ある程度人々のくらしに余裕ができ、あるいはそうでなくとも心に余裕が生まれるような時代だからこそ、そのような文化が芽生えたのでしょう。
 今の世もさにあらん。あらゆる芸術・文化・娯楽が狂乱状態であふれかえっているわけです。そりゃあ、文化的にはよい時代かもしれませんが、昔の武士などが生きていたらさぞかし嘆いたことでしょうね。
 しかし、注目すべきは江戸時代の俳諧などの主役たちは、ほとんどが庶民であったこと。平安時代の和歌における宮中や公家たち、いわゆる殿上人が嗜好したこととはおおいにちがうわけです。無名の市井の人々が主人公であったのです。
 だから、気取っていなかったのですね。たれでも日本語が話せるくらいだったら一句ひねってやろうと思ったわけです。今の、カラオケというかんじでしょうか。ましてや、学歴や会社の善し悪しなんてまったく関係ない。そこいらのオッサンが自由にやっていたということです。お金もあまりかからなかったみたいですしね。

 それにしても、それらの絢爛な文化がなぜ日本にはいつの時代に栄えてくるのでしょう。それは人々がすてきだからでしようか。それとも、世界の中でもとても教養がある民族だからでしょうか。あるいは、うんと歴史がある古い国だからでしょうか。
 どれも、その通りだと思います。しかし、もう一つ大きな要因があると思います。
 日本には世界でも屈指の美しい自然があるのです。
 
 今の世の中は、その環境がずいぶん壊されました。でも、優秀な日本の人たちはまたそれを戻そうとしています。壊したり戻したりして社会が進歩していくのでしょうか。それはまあ政治経済の分野の人にまかせるといたしまして、文化的にはどのていど自然を謳歌しているのでしょうか。
 インターネット・ゲームなどの世界は仮想現実中毒。学校はいじめや自殺。世間は殺人の繰り返しで困窮しています。自然に触れるまで手が回らないのかもしれません。それはそれで時代風景なのですが、複雑化した社会から脱落しないためにも親も子供も最先端にぶらさがろうとして必死です。しかし、いっこうに心をむしばむいろいろな原因を一掃できそうもありません。

 ならば、自然とともに脱落してみたらいかがでしょう。落ちこぼれるわけです。
 それはそれなりに度胸がいります。今まで、なんとか社会にはりついてきたのですから。おいしい物を食べ、かっこいい服を着て、3LDKの瀟洒なマンションに住みたい。そのために頑張ってきたのですから。それを抛棄するのかと。
 なにも仙人みたいにがけの上に棲んで、霞を食べて生きろということではありません。心の中にそんな桃源郷を持ってみたらどうかということです。
 
 もしも、日本が砂漠の国だったらどうでしょう。まず、水の心配をしてオアシスまででかけなければならない。花見に行こうにも木がない。山や海に行こうにも砂丘がひろがるばかりである。さあ、ここで俳句を作ってみましょうと云われても・・
 四季にかこまれた日本の風土がどれほど潤沢な自然にめぐまれているのがおわかりになると思います。そりゃあ、世界には風光明媚なところはたくさんある。しかし、日本のこの湿潤で絢爛なる山川草木にかこまれている国土はそうそうありません。
 もうひとつあります。日本はまれにみる美しい町並を持つ国なのです。
 歴史ある街である京都や奈良、東京や大阪の下町。里山にある神社仏閣、橋や村落、筧や井戸。あげればきりがありません。また、大都市の超高層ビルさえもその近代的美しさを誇っています。それだけ日本人の美意識とは各種建造物にまでおよんでいるのです。それを俳句の材料にしない手はない。
 まだあります。人情です。
 日本人はその歴史の中でももっともこまやかな人情を持ち続けた民族ではないでしょうか。どの地球上の民族から見ても、それを否定することはできないのではないかと。
 喜怒哀楽のはげしさには及ばないにしても、恋の深遠さや親子の情、忠節を誓う君子の交わり、師弟の情念、同胞への愛などこれまたあらゆる人情がうずまいているのが、日本の巷間であります。
 今の日本では、こうした美しいものがいくつか壊されたり失ってしまったけれど、まだまだすてたもんじゃありません。
 それはすべて皆さんが持たれている感性というものに根ざすからです。その感性こそが、美しい日本をここまでにしてきた根本精神だと思います。
 小津安二郎監督の作品の中での親子の会話、恋人との会話。歌舞伎や能、狂言に出てくる情念の言葉やしぐさ。そしてもちろん俳句の中の言葉にもその感性はきらびやかに奢られているのです。
 
「旦那、今日はいい鰈ありますよ。静岡産で身がぷりぷりっとひきしまって」
「いいねえ、縁側まで刺身といくか。山葵は安曇野のやつあったろう」
「へい。真鰺のいいのも塩焼きしときましょう」
「ところで、信楽の花器いいねえ。花は大山蓮華かしらん」
「へい。歩く姿たあ百合の花に化けたりしてね」
「山百合がいいやね。牡丹じゃ妖艶すぎちゃって氏神様に叱られちゃうよ」
「しぶーい古茶で心洗いますか。へい、あがりいっちょう」

 ふだんの寿司屋での会話にしたって、落語や講談の世界。あるいは、俳句や短歌の世界。歌謡曲の舞台であってドラマの舞台でもあります。それらすべてが日本的な感性の裏打ちによって構成されて日常の会話となってゆくのです。
 こんな粋な会話を日頃からしている外国人たちはそうはいません。

[
How much do I have to buy to get a tax refund ?]いくら以上買えば税金払い戻しが受けられますか?
[
Over, one hundred dollars]100ドル以上です
[
Oh! If it was a little cheaper, I could buy it]もう少し安ければ買うのですが
[
You will take two,so you can do it!]じゃあ2つ買えばいいですよ!

 こんな店員と買い物客の会話がアメリカンジョーク(私の作なので・・(汗)はたしてジョークがあるかどうか?)になるかどうかは知らないけれど、英語圏の日常の舞台に差し替えてみるならばこんなかんじかと。
 しかし、会話がナマで物質的にダイレクトすぎて、そこに情感を入れるのがむずかしいのです。行間に湿度というものが欠けています。そこに存在するはずの余韻のようなものが見あたらないのです。
 およそすべての会話が無味乾燥とは云わないまでも、この日常のウィットのある会話を何語においても、詩的に転換する感性をすくなくとも私には持ち合わせないのであります。
 日本語はウィットというか、滑稽味を持つと同時にウェットを持つのです。つまり、しっとり感とでも申しましょうか。うるおいのある、湿潤な言葉なのです。わるく云えば、陰湿で情にながされやすいと云ったところですが・・。
 ここを改善すべく滑稽や洒脱といった要素があるのでしょう。日本的な詩の世界にはいつでもウェットな気持ちばかりが優先するのではなく、そこにちょっとした日常のほっとするようなしゃれた言葉がはいって楽しむものなのです。
 
 もっとも、多くの人は日常に外来語を交えながら生活をしています。生活様式も西洋風ですから、日本的な文化や教育、詩の世界など必要ないとお考えの方も多いでしょう。
 その方々に提案します。どうぞ、外人になってください。
 どうしてもそちら側へ行きたい方は、顔は日本人で背も低いけれど、どうぞブロードウェイに招待されるような外人的日本人になってください、と。
 恐らくそれを目指している人は日本に今六千万人くらいいるのではないかと思います。実は私も若い頃そうでした。二十代まで、私は映画「追憶」のロバート・レッドフォードになりたかったのです。いえ、頑張ればそれに近いものになれると思っていました。
 しかし、まことに遺憾ながら挫折いたしました。それに近いどころか、加齢とともに、親爺に似てきて、身長もちんちくりん、頭は薄くて、声はキンキンとした典型的な日本の出腹のオッサンになってしまったのでした。
  そんなオッサンを尻目に六本木ヒルズでは腰高の女性がこの世を闊歩されています。それへの嫉妬心が申すのですが、どうぞ外人になっていただきたい。外人になってマリリンモンローみたいに泡のジェットバスに浸って、なんとかローズのフレグランスに包まれて萌ちゃんよろしく艶然とほほえんでいただきたい。君たちは堂々とグローバルスタンダードにのっとって日付変更線をコンコルドで越えていっていただきたい。
 出腹のオッサンは日本人に戻ることにきめました。私はたまたま俳句という救世主があるものですから、それにすがってお稲荷さんのお揚げでも盗んで生きていきます。
 
 現代は平成という三番目のパックス・ジャポニカなのだそうですが、いつ敵機が来襲するともかぎりません。そして、捕虜になったとき自分のことをなんと説明するのでしょうか。
 曰く、顔は日本人ですが心はウェスターンです。曰く、脚の長さは欧米並です。曰く、英検一級で、ディズニーランドの通訳をしております。曰く、フェラガモの靴とローレックスの時計、ブラダのバッグを持っております。曰く、海外旅行に二十回ほど行ったことがあります。曰く、山手線の駅名を全部英語で言うことができます・・・・云々
 しかして、疑似西洋人となって延命をしたところで何になるでありましょう。
 そこは潔く、割腹なりにて自刃するしかないのではないか。まあ、そこまで過激でなくとも、最期には辞世でもゆっくりとしたためて、山紫水明の如く心しずかに死を待てばよろしいのではないでしょうか。

 とまれ、日本人の顔をした外国人になりゆく日本。国家としては、そろそろそれに飽きてきてはいかがかと思います。
 まったくのいいとこ取りですが、いわゆる文明の部分こそ活用し、文化の部分において和洋折衷の洋の部分を斬り捨てる。信号機は残し、ハンバーガーチェーンは捨てる。水洗便器は残し、過剰な英会話スクールは捨てる。それも程度問題であるにせよ、心に桃源郷をむすぶにはそれくらいの飛躍がなければいけません。
 
 だんだんと俳句本来の話しから逸脱してきたようですが、そもそも俳句をやる前にこのような前提があるのでした。それだけ、俳句というのは奥深いのですね。でもご心配はいりません。先も申しましたように、およそ日常の日本語がしゃべれる人であれば俳句は出来ます。ただ、じょうずに出来るようになるにはちょっとした修行が必要なわけです。
 その修行といっても、いわば日本人としての顔を取り戻す修行。新しい日本人の顔でもかまいません。ロバートレッドフォードの体に田中角栄の顔をつけてもかまいません。
 要は日本的感性を取り戻していただきたいということ。
 それは、貴人のものでも政治家のものでもかまいません。それを解かした温泉でできた風呂こそが石川ならぬ俳句の五右衛門風呂。その風呂に浸かりながら、外界の移りゆく自然の風景や路地の熊さんや八つぁんの様子。銀色に輝く超高層ビルの栄枯盛衰の様子などを五七五の言葉に諷詠してゆくのが、俳句の桃源郷なのであります。



「閑話休題」

  明易や花鳥諷詠南無阿弥陀     虚子

 四月八日は高浜虚子の忌日である。
 その数年前に作られた句が掲句。齢八十の年寄りが、夏の夜の明ける早さを感慨をこめて句にまとめた。八十年の花鳥諷詠への道への感慨である。それは一瞬の出来事であったのだろう。
 相対性理論による時空のゆがみは、この「明易」という季題に似ている。時間が場合によっては歪むのである。最晩年の明け方は過去の八十年に匹敵する。
 それをうけて、

 虚子有情虚子忌非非情南無阿弥陀   俊樹

 「虚子忌」が季題。虚子は有情の人。非非情は、非情に非ず。またすなわち有情のこと。虚子の忌日もまた有情、すなわち全生命が宿っている死せざるもの。
 虚子が生前に花鳥諷詠を南無阿弥陀とおがみ、永遠の命を祈ったのにたいし、その虚子の忌日もまた永遠の命あるものとして南無阿弥陀とおがんだのであった。
 虚子は死せし後、宇宙の微粒子となってふわふわとそのへんを漂っているそうである。

  
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