虚子伝来
 坊城俊樹 空飛ぶ俳句教室俳句教室         vol.3  2007/06/08  

  「季題と中上宇宙」

●季題・季語という前に、季題の宇宙を学びます。

 季題は季節の言葉であると同時に日本人の血にかよっている何かに起因しています。
 日本人の心はそもそも湿潤な日本の気候風土によってつくられていると言われます。あるいは、かつて住んでいた家や路地、家族の風景などによっても形成されてきたと思われます。
 時には天変地異や動乱。疫病や飢饉などもありました。しかし、その心を決定したものは、やはり日々の生活であったものと思われます。
 われわれの血はそうしたものを長い間受け継いできました。そして、もともとは自然から享受した多くのものを、血に流して幾世代も婚姻を重ねてながらえてきたのです。
 世界中のどこでもそうでしょうが、その結果似たような人々がつくられて、いわば共同の幻想のようなものに支配されていきます。
 その幻想に自然の神が入りこみ、外来の仏が入りこみます。そこに心が生まれて、信仰もまた生まれ、愛というようなものも、憎しみのようなものも生まれます。
 共通の感動や怒り、哀しみや笑いなどもすべては幻なのかもしれません。それは、血の中で発酵し、自然界のものを摂取することで熟成されたものです。
 その血こそ季節によって支配もされ、人智を超える何かによって操られているのかもしれません。本能というものもその一つでしょうか。美意識というものも、芸術もまた。それらが作用して、季節と人とが二千年以上も生きながらえてきたのです。
 もうひとつ言うならば、われわれのDNAの中にも季節の言葉が刷り込まれているはずです。季節そのものが刷り込まれているといっていいでしょうか。その遺伝子レベルでの刷り込み現象で、人の生死・感情などすべての歴史が動かされていきます。
 
 だから、季節の言葉とは単なる季節の言葉ではない。


 ところで、中上健次は私が好きな作家で、俳人でもあります。
 彼は自身の路地の暮らしを「秋幸」という一人の気の荒い青年と重ね合わせ、その小説『枯木灘』で語りました。

 その主人公である「秋幸」は中上本人であり、つまり路地そのものであり、路地が孕んで産み落としたそのものであり、二間続きの部屋の鴨居に紐をくくりつけてそれで酔った首を巻いて自殺した兄はやはり中上の闇そのものであるらしかったのです。

 兄も弟もそれを産み落とした路地そのものであると言う、いわば路地の語り部の「オリュウノオバ」は彼の生い立ちを全て知っていて、何一つとして知らないことはない。その旦那で毛坊主の「礼如」さんはそのことを知ってか知らずか、いつも「南無阿弥陀仏」を繰り返すばかりで、「オリュウノオバ」の冷笑を買っていたりします。

 路地には初夏ともなると金色の小鳥が誰も居ないような真昼の飯時にどこからか飛んできては去って行くといいます。それを「秋幸」は幾度も見たと言うが「オリュウノオバ」はまた「秋幸」の虚言癖が出たとにわかには取り合わないのです。
 「秋幸」はまた近くの髪の匂うようなそばかすの娘の影が伸びて行くのを眺めながら一人死んでいった兄の「郁男」のことを思います。思うに兄は熊野そのものであるし、京都や奈良があるのも熊野があるからに違いなく、熊野の荒ぶる神は他所者のことを慈しむようなまねは開闢以来したことがないはずであり、その使いとしての金色の小鳥は恒に「秋幸」のみが見ることが出来るただただ崇高なものであると、彼は確信をしています。

 中上はその作品群の中で熊野という自然は自然を越した自然。つまりそこに恒に神を畏れ、仏を敬うという言にあるように、他所よりもすこし天や地への路がはっきりとつながっていると考えています。
 それは当然のことで私も私の路地がそうであると思っているように、中上も自身そのものの化身である路地が神とつながっていると考えることは、例えば、公家にも公家の路地神があるということとほぼ同義であると思います。ただ公家には神が荒ぶらない。公家の神は神式の各種様式に縁取られたいろいろな物であり、そこに金色の精神が金箔よりも薄く貼られているにすぎません。
 しかし千三百年間もその金箔を貼り積み重ねてくると、いよいよそれは金色を帯びて光り輝く金の鎧のようであるが、同時に路地に蓄積する愛憎模様の垢によって墨のように黒ずんでしまっています。
 その黒ずみというものこそが、血の一族の連続であるような気がしてなりません。それこそが日本の歴史であって、路地の歴史であると。黒ずんだ、どろどろとした血が今までの日本人そのものであると。

 かつて、熊野在住の俳人の松根氏は中上の最高の理解者であったといわれました。そして俳句会を催し中上に多くの俳句を作らせる機会を与えもしたといいます。熊野の男のような山や女のような路地に囲まれた新宮や熊野川のほとりで何を俳句に託してきたのでありましょうか。
 私には路地の空にやってきて酔芙蓉の花にとまる金色の小鳥を描き続けてきたのだと思っています。それはつまり、路地に来る神さんを描くことであり、「秋幸」にしか見えない、そして「中本」の一統の血を受け継ぐ者しか知らないみの世のものとは思えないような、美しい熊野の荒ぶれた神の言葉というものを描いて来たのだと思います。

 つまり、俳句とはこのような世界観を持ったものであると思います。
 特に、その重要なるファクターである季節の言葉とはこのように単なる言葉の世界を超えた、日本人のすべてのルーツのようなものなのです。
 そう、その金色の小鳥こそ、季題そのものであって、俳句そのものであると。

 
 兄の「郁男」はその一統の血の重さに自らの命を断ってしまいましたが、「秋幸」はそれを見て自分の血に兄の血があたかもそそぎ込まれて、二倍の濃さになってゆくような錯覚に襲われていきます。
 そうした自分が路地から空を見上げることで、自分が路地に生まれ、「オリュウノオバ」が「秋幸」を産婆として手に取り上げた時から全てのことを知っているように、「秋幸」もまた路地に生あるものとして現れたとたんに路地のことや山や川や熊野や他所のことを知っているのだと一人ごちるのでした。
 中上自身もまた路地の出身。そして、秋幸自身であるならば、そのような世界観を持ち、俳句の中に広大なる熊野宇宙をかかえこんでいたのでしょう。
 

 毛坊主の「礼如」さんだけは下界のことと少し関係して、少しだけ外の俗悪な事柄に心を動かされたりしています。それを見ていた「秋幸」は薄ら笑いを浮かべ、
「オジ、どうしたんね。また、そこらの水玉のスカート穿いた唇の赤い他所の女にだまされて好いてふられて、オリユウノオバに叱られに帰るとこなんか。」
 と言うと、「礼如」さんはいつものごとく怒って言います。
「おまえも、死んだおまえの兄やんもオバやオジらはお前らがこの路地に生ある者としてオバの手に落ちた時から知り尽くしてるんや。金色の鳥を見たとぬかしても、蓮池に少女の幽霊がさまよっているとうそぶいても、オバやオジはみんな見透かされた嘘だとわかっての事や。」
 それもまた俳句であるのなら、どのような宇宙をかかえようとも、その俗というものから離れることはできません。どのような崇高なる宇宙を背景にしていても、人を含んだ季節というものに俗はどこにでも現れてきます。
 
 俗こそが血そのものである。ということも言えるのかもしれません。その俗、ひいては一統のものたちの二千年間の俗というものが血のひとつひとつの微粒子になって流れているのです。
私にも一統の血が混ざっているが、もしかしたら遠い過去には中本の一統の血も混ざっていたのかも知れません。

 中上健次は今から十年ほど前の初秋、熊野で没しました。




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