虚子伝来
 坊城俊樹 空飛ぶ俳句教室俳句教室         vol.3  2007/06/08  

 「花鳥諷詠」


 花鳥諷詠とは昭和三年に虚子が提唱した俳句の理念であります。
 花鳥と諷詠と二つの言葉から成っていますね。
 世間には花鳥風月という言葉もあります。これは自然の美しさを言ったり、それを愛でることを言ったりします。
 花と鳥と風と月です。それらは自然を代表する選手たちなのでしょう。それにたいして、花鳥諷詠は花と鳥しか登場しません。それを諷詠するというかんじで言葉が成り立っています。はてな?
 虚子はこの言葉を昭和三年に作りました。造語ですね。もともとは花鳥風月くらいしか無かったわけです。でも、それはちょっと風流すぎて俳句にはそぐわない。そこで、花鳥風月を短くして花鳥くらいに代表させてしまおうと考えたわけです。
 でも、ちょっと無謀ですね。
 花と鳥だけだと、風と月はどうするのか。それにそもそも世の中の自然にはもっとたくさんのものがあるじゃないかと考えますよね。
 昭和の初期はまだ自然がきれいだったでしょう。風もきれいだし、月も冴え冴えとしていたにちがいありません。山も川も草も木もそりゃあきれいだったし、動物や植物も自然のものがたくさん残っていたはずです。
 もっとも花鳥だけで、自然美の代表くらいの意味もあるので、その他の選手を省略してもさしつかえはないのですが、それでも花と鳥だけではなんとも心許ない。人なんかはどこに行ってしまうのかという疑問が残ります。

 人というものはやっかいなものですね。
 人だけが自然美の中から逸脱しているかのよう。
 だって、キリスト教などでも人は他の動物とは違う生き物だとしているのでしょう。すると自然の中にも入れてもらえないことになる。
 最近はばかにあわてて環境問題・環境問題と騒ぎ立てていますが、とっくの昔に環境から決別しているくせに、今更何を言っているのかと多くの動植物たちは思っているはずです。
 一番の環境問題の決着は人がいなくなることですね。人さえいなくても地球号はべつに困らない。むしろ歓迎でしょう。だから、せめて俳句の世界では人も自然に入れてもらおうじゃないかというのが花鳥諷詠の考えでもあります。
 とまれ花と鳥に代表される自然はもっと大切にされねばなりませんね。朝の通勤電車の顔ぶれを見てみると、およそそのことに気がついている人が半分、後の人は自分の仕事や生活のことでいっぱい。まあそれが普通ですが。残りの半分も気づいているが、死ぬときゃ死ぬときと思って何もしていない人がほとんど。車輌に二三人が真剣に考えている人でしょう。(もっとも私自身も俳句という手段は持っているものの、行動を実行に移すという観点では心許ないものがあるのですが・・・・)
 
 花鳥諷詠というのは、花鳥すなわち自然を諷詠するものだということがおわかりになったと思います。
 でも、それにしても人が諷詠するのですから知れてます。俳句という詩に乗せて「うーうー」うなるわけですが、自然はそれに答えてくれるものとも思えません。ましてや、自然ばかりでないのが現代の世の中ですから。
 先ず人が自然でなくなってしまった。
 自然を取り戻そうとはしているのですが、およそ他の生物とは異なる人工的な生活になってしまった。食事にしてもそうです。近年やっと人工の添加物は規制されるふうになりましたが、中国などはかなりまだまだみたい。
 その人類が作る詩の中に人が入っていないのはちょっとイカンのではないかと思うのです。

そこで虚子は、
「有情」
という言葉を使いました。情のあるものくらいの意味です。情があるということは生きているから出来ることですね。死んでいるものや、ただの物は情が無いはずです。その有情のものは生物であるのが普通でしょう。
 その有情のものを諷詠するということになれば、自然界の中の落第生の人もまた含まれるのではないかということです。
 よかったよかった。これで人を諷詠もでき、花鳥の中になんとか入れてもらえるというわけです。人類発生からわずか四百万年ですから、他の生物からみればほんの子供。それでも、頭が良いと勘違いしてしまった我々は、とてつもなく鼻持ちならない生物ですが、それを神が赦してくれたのでしょうか。
 有情のものを諷詠する。
 嗚呼、なんと美しい言葉でしょう。しかも私も入っている。しかしですよ、私の祖父は亡くなっている。元は人ですが、生きては居ないとなると有情のものそのものではないのかしらん。祖母はどうなる。前に死んだ犬はどうなる。
 また新たな疑問が出てきてしまいます。
 それに、人はいいけどその肉体はともかく感情とか心そのものはどうなる。着ている物はどうなる。パンツやブラジャーはどうなるのだ、という疑問も出てきてしまいます。
 やっぱり俳句は花鳥と言って、風雅な自然と動植物じゃないとだめじゃないの、結局のところは。ということになってしまうのであります。
 よく伝統俳句と称している流派はこの花鳥諷詠を信奉しているのだから、優雅なことよのう、と言われたりします。ある意味でそれはその通りでして、有閑マダムかなにかがお俳句をしていると揶揄されるのもむべなるかなと思われる行動をとったりもしています。
 主宰とカルチャーのお茶会か何かをしているつもりの人も居るようです。もっとも、それだけ日本も平和なのですから結構なことと言えば結構なこと。
 それでも、ちょっと誤解を解いておきたいのです。
 「花鳥風月の諷詠」ということだと、その感覚は優雅なる公家のお茶会と曲水にながれる短冊の世界であります。これが「花鳥諷詠」となるとその中に人が介在するのですから、もっと生々しくドロドロとしてきます。
 私などはそのあたりが好きで好きでたまらないのでありんす。
 もともと坊城家はビンボー公家でした。だからなんでお前は俳句などという庶民のくだらない戯れ言をして和歌をやらんのだと叱られています。その理由はこのドロドロ感です。もっとも和歌や短歌にもそれはある。でも、俳句はその感覚がニョロニョロと説明することなく、鋭敏に叙するところが好きなのです。
 ドロドロでもニョロニョロでもいいのですが、お俳句であってももっとディープな世界が待っているものだということは言っておきたいのであります。
 さて、人はそのくらいにしましょう。されば物はどうなるのよ、ということになります。

 そこで虚子は、
 「非情」
と言いました。
 有情のものではないものです。情に非らざるもの。情の無いものであるからそれは物かもしれません。あるいは、先ほどの死せし者。見える物質でなくとも素粒子のような極小のもの。音や光りなどの波長。霊魂のようなものもそうでしょうか。
 有情であるものを諷詠する詩。つまり、その情を汲んで言葉に置き換えて、五七五に置き換えて、一つの世界を作る。それが俳句であると言うことでした。

 非情のままでは困るのです。そこで、
「非非情」
という言葉を言いました。
 非情のものでも、すべての非情のものと思われるものでも、宇宙からみれば非情のものなどない。だから非非情あるいし否非情のものだということです。
 俄然、話が高級になってきました。
「ヒヒジョウ」というとアフリカのマントヒヒか何かを思い出しますが、いえいえとんでもなく大きな世界の話なのです。
 磐とか石。山とか川。海とか砂。ビルとか車。橋や道路。テレビやパソコン。お化けや人魂。素粒子理論やバイオテクノロジー。坂本龍一の音楽やマーラーの五番。戦争や平和。歴史や未来。嫉妬や快楽。
 ものみな非非情のものであって、非情のものなどないのです。

 つまり非非情=有情であると。
 かなり難解にコーフンしてきましたが、ここにおいてこの有情のものすべてを諷詠するのが花鳥諷詠の真の目的であり、ゴールであるということが漠然とおわかりになったと思います。
 人から見れば鳥は生き物でおなじ情の通わせることのできるものだと思いますが、神のようなものから見れば、そこいらの石ころも人も鳥もさして大きな違いはないのだということなのです。
 だから、今の虚子派はお俳句だと言って、いつも我々に厳しい視線を向けられている櫂未知子さんも、グレースケリーと同じほどの美貌であられるし、蓋を開ければ石ころ同然でもあるのです。
 
 虚子有情虚子忌非非情南無阿弥陀        俊樹
 キョシウジョウキョシキヒヒジョウナムアミダ
という句があります。つまり、

 虚子は有情の人
 虚子の忌日も有情のもの
 すなわち非非情のもの
 南無阿弥陀              俊樹

 という句であります。
 懸命なる読者諸氏はもうこの句のすばらしさがおわかりになったことと思います。漢字だけで、あたかもゲジゲジが這っているような作品ではないということを。嗚呼、なんと美しい情の作品であろうことを。
 この句はある日の虚子忌の俳句大会に出したものですが、まったくのスカ。誰一人としてこの句の壮大なる宇宙を知り得た者はいなかったのでした。
 無理もありません。この有情の論理を理解し、実践している唯一の者は、その時私しか居なかったのですから。
 でも、今日からは違います。読者諸氏の皆様がこのことをご理解いただければ、「お俳句」ならぬ「大俳句」の出現は間近なのであります。
 


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