虚子伝来
 坊城俊樹 空飛ぶ俳句教室俳句教室        vol.8  2007/11/08

 「自由律」

 自由律とはすなわち、自由なる旋律のこと。
 俳句でいえば、新傾向の俳句の動きが大正あたりから活発になってきたときに生まれたムーブメントの一派ととらえています。
 俳句は定型の詩ということで五七五の十七音で構成されていることはご存じでしょう。中には字余りと称して、六七五や五七六などの破調の俳句もありますが、九九八や一三一などはあまり見受けられませんね。
 やはり五七五を基準として展開するのが俳句といえるわけです。でも、正岡子規が死んでから、碧梧桐などの新傾向派は五七五の旋律にあきたらず、いろいろな実験をはじめます。

 曳かれる牛がずつと見廻した秋空だ   碧梧桐

 五七七てな調べでしょうか。最後の「だ」に情念がこもっているとしかいいようがありません。もともとは「日本俳句」という雑誌の選句欄からスタートした自由化の動きがこのころになって活発になったものであります。

 さて、あせったのは虚子です。
 「じょうだんじゃない。それじゃ俳句になってないじゃないの。新しい形ばかり追って、なにが新傾向だ、新興だ。わがホトトギス社の前にも新興ナントカ会社やら、新興商品を売る広告があるが、新興なんて聞きたくもない。だいっきらいだ。」
 そのお怒りのことといったら。山は動き川は氾濫し、オケラも退散するほどのことでありました。
 
 ミモーザを活けて一日留守にしたベッドの白く   碧梧桐

 「こらっ。碧っ。何をやっとるんだばかもの。われは、子規の遺言を忘れたかぞなもし。子規の大志はどぎゃんしたかぞなもし」
 ということで、怒り心頭の虚子は「守旧派」の宣言をしたのでした。それにもかかわらず、そのころの新傾向はごきげんなパワーがございまして、

 赤ん坊髭生えてうまれ来しぞ夜明け   一碧楼

 といった後進がぞくぞくと出てきます。
 かつて「無中心主義」で実感の写生というか、現実を季題という中心でとらえるのではなくて、あらゆる自然界にはいくつもの中心があるべきとした、無中心の捉え方を主張してきましたが、ここにきて「覚醒的自我による動的自然描写」というなんだかワケノワカラン主張にたどりつくのです。
 この、カクセイテキナントカはとにかく古い季題趣味を革新した自我だか心理の描写をするのだそうです。
 すごいですね。よくわかりませんね。
 
 TURK(トルコ)のやうな浴場が欲しい場末の秋だ   一碧楼

 なんかもいいですね。勘違いされるといけませんが、これは本当のトルコ式の浴場のことです。なんとも哀愁のある俳句であります。
 でもどうして「だ」が付くんでしょうか。「だよん」では冗長になるし、「かしら」じゃオカマ的になるからでしょうか。
 おそらく「だ」が新しいのだ。
 
 おわかりのように、このような長い旋律、長律とでも申しましょうか、はなんとも冗長で時代遅れのような感じがするものです。当時は新しくて新鮮な感じがしたのかもしれませんが、二〇〇七年の今となっては古色蒼然たるものです。
 ただし本人はあまり俳句として意識していなかったようです。俳句でも詩でもどちらでもよかったみたい。強いて言えば「赤塚不二夫風俳句」とでもいいましょうか。現代でも影響のある天才バカボンの詩であります。

 佛を信ず麦の穂のしんじつ   井泉水
 かなかな鳴きつぐかなかなはなくてふと暮るる   同
 
 なんてのはいかがでしようか。
 短いのも長いのもあります。なんとなく真実に近づいているようで迫力があります。彼は俳句は印象の詩から発展して象徴の詩となるべきものと主張した人です。
 なんとなくわかったような気がします。季題とはもう遙かかなたの山の穴ですが、象徴詩ということには共感さえ覚えます。
 「かなかな」は蜩。それがカナカナと鳴き続けている。でも永遠に鳴き続けているわけではありません。いずれ、鳴きつながない時がやってきます。その瞬間に山に帳が降りるのです。暮色は突然にやってきてカナカナの命もそこで途絶えるかのよう。人の暮らしもそこで夜の中に吸い込まれてゆくのです。やがて人も死に行く。畏れを抱きつつ。

 尾崎放哉という漂泊の俳人がいます。
 この人は一高・東大といういわゆるエリートでした。(もっとも井泉水もまた一高・東大であったのですが)そして、保険会社の支店長かなにかを歴任するのですが、いつからかヒッピーの前身みたいな詩人になってしまいます。もったいないですね。
 もっとも保険会社で社長になっても歴史的に忘れ去られてしまったところ、放哉になったのだからよほど幸運であったともいえます。実は現代でも虚子などよりもよほど放哉の俳句のほうが人口に膾炙されているといっていいと思います。
 
 淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る    放哉
 せきをしてもひとり
 渚白い足出し
 するどい風の中で別れようとする
 陽が出る前の濡れた鳥とんでる
 すばらしい乳房だ蚊が居る
 蛍光らない堅くなつて居る
 足のうら洗へば白くなる
 淋しいからだから爪がのび出す
 宵のくちなしの花を嗅いで君に見せる
 肉がやせて来る太い骨である
 明日は元日が来る仏とわたくし
 春の山のうしろから烟が出だした
 墓のうらに廻る

 なにか妙にたくさん抄出しましたが、今回のテーマは実は放哉なのです。
 口語体の俳句として有名です。しかしはたして、だからといって新しい自由律といえるのでしょうか。
 放哉の放浪と隠遁の根底にあるものは、よくいえば青春性にあるのではないだろうかと。そして悪くいえば、現代にも通じる逃避性、あるいは引きこもりに通じるものではないかと思われます。
 エリートであるにせよ、ガラスのような心を持った放哉。すぐに粉砕してしまう心は、女性よりも女性らしいといえます。
 彼は常に、「妙法蓮華経観世音菩薩普問品」を唱えていました。これは法華経の部分でありまして、大乗仏教の重要な教典です。天台宗などの教典で、おおきな宇宙観と小さな人間が観世音菩薩への信仰によりいかに救われるかという教えです。
 彼は衆として常に救いを欲していたのでしょう。
 
 放哉の俳句は俳句とはいえないかもしれません。放哉の詩であります。放哉しかできない、衆生を救う詩なのではないでしょうか。
 その他の俳人は花鳥諷詠の俳人であれ、そうでない者であれ、そのような青春性を持った、激烈な衆生のための宗教性を持ったものはなかったはずです。
 自然とその部分としての人間は俳句を通じて自然を諷詠し、その結果として極楽に行けるとしても、現今の現世利益を享受できるものではなかったでしょう。そして、死後の極楽をもとめるというより、死後と生前がつながっているような俳句はなかったように思います。
 すなわち放哉の詩は当時の若者たちの叫びのようなもので、それは死に急ぎゆく若者の叫びでもあったはずです。それを当時の大人たちは理解しえなかった。だからこそ現代においてもその宗教のような青春性が人々の心をゆさぶるのではないかと。

 もう一つ大きな特徴点として、彼が高学歴の出身であったということ。
 この高学歴で支店長までした人物こそが社会にたいするアンチテーゼができた理由であります。もともと、橋の下からスタートしたヒッピーであればここまで反社会的にはなれない。つまり単なる負け犬ではなかったのだろうと思うのです。
 ここからは推測ですが、彼は社会や会社にたいする復讐をしたのです。人生にたいする復讐でもあったかもしれない。師匠の井泉水以外のすべての人たちへの復讐だったのです。
 さして貧困とも思えない彼の境涯において復讐などをする理由など見あたらないかもしれません。しかし、彼の怜悧な頭脳はその復讐が未来に繋がってゆくと思っていた。
 それは、俳句芸術のような古典伝統を転覆させようとするアナーキズムであり、新興宗教のような激烈な芸術革新をねらっていたのではないかと。つまり、心のどこかに正岡子規の革新と異なるけれども、命を懸けて次の世紀につなげる詩的革命をおこしたかったのではないかということです。
 社会構造などに熟知したヒッピーは、たんなる腺病質のような俳人として立ち回ることはしません。その後の新興俳句運動の者たちのような左翼系のプロパガンダに傾くような流行もとりません。
 もっとずっとアナーキーな態度によって社会への復讐と革新を目指したということなのです。
 ここで思い出されるのが三島由紀夫。
 大蔵省に東大法学部卒業として入り、たった三か月で退職してしまう。放哉もまた東大法学部の出身。
 最高の頭脳として期待されたキャリアは、大蔵官僚としての仕事の精密さに芸術を重ね合わせていたけれども、その死生観にまで及ぶ芸術を官僚の一生で終えるわけがありません。
 そして自決の日まで、ガラスのような神経と肉体をサイボーグのように変身させて、最高の文学を築いてゆきます。そこにもまたアナーキズムの美学に貫かれていた。
 その頭脳と放哉の頭脳は月とスッポンなのではなくて、月と金星のような関係であったのかもしれません。
 三島の『豊穣の海』の大作は、輪廻転生のこと。ここにおいて、衆生たる登場人物たちは花鳥風月の一歩さきの輪廻の宗教によって救われ、あるいは裏切られて死んでゆきます。そしてまた生誕する。
 この彷徨は、三島文学のテーマそのものであったはずです。そして、その『暁の寺』における金星はたったひとりで死んでいったヒッピーの詩人に手向けられるものであってもおかしくはなかったはずです。

 三島由紀夫は四十五歳、放哉も四十二歳という若さで死にます。
 夭逝すればいいってもんじゃない。まあ四十も過ぎて夭逝もなにもないとは思いますが、その二人ついでに子規の三十五歳の死を考えるに、その青春性は夭逝とよんでもよいのではないでしょうか。
 青春性という言い方が青すぎるのであれば、その思想性、いやテロリストのような革命の戦士のような血のしたたる怨念の形相がそれらに共通しているのではないかと思うのです。

 しかし、三島と子規にあって放哉になかったものがあります。
 それが様式美。
 圧倒的な三島の日本的様式美ほどではなかった子規も様式美を否定はしなかった。ただ、時代としての西欧化やリアリズムに汚染されていたということです。しかし放哉にはなぜそれが見あたらないのでしょうか。
 わかりません。
 ただ、とてつもなく飛躍した意見としていえば、放哉と二〇〇七年の現代の若者との類似性であります。
 若者とは限らない。今の日本人との類似性であります。そこに希薄になってゆく様式美が見えています。様式美こそ現代の近年までにもっとも必要とされてこなかった日本の美意識です。
 様式美や形式美はじゃまである。
 生産性のある社会、そして芸術の分野においてもこの美意識は希薄であるほど新しいという観念です。やさしさだけが残された美意識なのかもしれません。
 その無用のような「やさしさ」、これが放哉の美意識のヒントになるようです。アナーキーに彩られた裏面のやさしさ。まったく日本にとって無用でびた一文足しにならないようなやさしさ。
 言い換えれば、日本のオタク文化、日本のアニメのような非現実的なやさしさが似ているのです。
 やさしさだけが人生さ。
 この言葉は、これからの二十一世紀における放哉的な詩の活動をいかに今の日本人に植え付けてゆくのか大きなキーワードになってゆくはずです。
 そう次の俳句世紀は放哉から始まるのではないかということです。
 
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