虚子伝来
 坊城俊樹 空飛ぶ俳句教室俳句教室        vol.9  2007/12/08  

 「虚子と戦争」
戦争というものがあります。
 人というものは、獣のようにけんかをするときに、比較的に肉体性が脆弱なものですからすぐ道具を使います。なにやらそれを進歩とか文明と呼んでいるようです。
 その道具利用のけんかが発展すると戦争であります。
 戦争は相手を殺傷するので正義とか信念とかが必要になってきます。それはまた、相手の宗教や文化を否定して、自分の宗教や文化を押しつける結果となります。ひどいときは、人そのものを押しつける、いわゆる民族浄化などもいたします。
 つまり勝ったほうが負けたほうの国土といわず人や心の中も蹂躙していいという信念に至ってきたのが人の歴史です。
 
 日本においては、ご存じのように世界大戦における敗戦がもっとも最近の例でありました。はたして米国が蹂躙したかどうかは政治家・歴史家にまかせるとして、はたして俳句はどのような影響を受けたのでしょうか。
 
   夏草や兵共がゆめのあと   芭蕉

 有名な芭蕉の代表句です。これもまた戦争によって彩られた、日本の姿を詠嘆したものであります。奥州の藤原氏や、源の義経の面影を見いだしてつくられた傑作であることは誰しもが承知しているところです。
 この句にある本質というものが今回のテーマになりましょう。
 奥の細道にて感じた芭蕉の無常観というものがあります。それは歴史の無常観であって、いささか哲学であって宗教であったかもしれません。
 戦争の果てにある勝者の栄華、あるいは敗者の衰退の面影などがこの句に錯綜しています。それを詠嘆する。しかし、芭蕉は勝者や敗者にたいしての詠嘆もさることながら、その国土である大自然にたいして詠嘆をしているのです。
 とめどなく流れる涙もまた、人のむなしさとそこに青々と茂る夏草の生命力をこそのものでした。その生命は千年を経てながれる普遍でありました。あるいは、中国であるいは日本で。
 俳諧の歴史には戦争をこのようにとらえる、日本的な哀しくも美しい先達があったのです。
 
   敵といふもの今は無し秋の月   虚子

 虚子の戦後はこの句から始まりました。
 終戦直後、新聞記者に俳句はどのように変わったかと問われた虚子は、
「俳句はこの戦争に何の影響も受けませんでした」と答えたといいます。そのときにその記者があわれむような目をしたと言っては、虚子は笑っていました。
 虚子にとって戦争は俳句に何ももたらさなかったのです。そればかりか、その後の時代においてもあいかわらず俳句は戦前のような顔をして浮き世を歩いているのであります。
 ここにある、俳句観と申すものもまた芭蕉の時代から受け継がれたものといってもいいでしょう。日本の伝統文芸はおおきな戦争を越えることのできる普遍性を持っていたといっていい。それはすなわち、俳句というもの以前の大きな何かなのではないでしょうか。
 
 しかし、それとは裏腹に文芸あるいは文学として全体はそうもいってられなかったという事情がありました。時代に翻弄されることこそが時代性を帯びた芸術そのものであるという認識がありました。
 その中で西洋文学を基礎とした芸術にたずさわる人から、俳句はいったい何をやっているのか、戦後そんな時代遅れのことをしていてよいのかという声が挙がります。


 第2芸術論であります。
 フランス文学者の桑原武夫がこのことを言い出しました。
 曰く、芭蕉的俳諧は日本の近代文学のさまたげ。曰く、俳句専門家と一般俳人の作品の優劣のなさ。曰く、結社などの中世職人組合・ギルド的であると。そして、そんな俳句界は西山宗因に帰れ、つまり談林派・西鶴へと回帰するがよい、とおっしゃったのでした。
 さてさて、憤慨したのが当時の俳壇。蜂の巣をつついたような状況で、総反撃を開始したというわけです。
 そこにいた虚子は、当時なんといいますか、俳壇の長老的存在で若者たちから一目置かれていたというか、隠居扱いされていたというか。うすぼんやりとした影扱いされていたかんじで少し気の毒であったのです。が、

 「俳句なんてものはそもそも第13芸術論くらいのものだと思っていた。庶民の詩である俳句が第2芸術までいったのかん。よしよし」みたいなことを言ったので、やんやの喝采を浴びます。
 もっとも、おそらくは虚子は第ナントカ芸術そのもののジャンルにたいして興味があったとは思えません。そんなのドーデモヨカッタのです。
 おたくの息子さんはこのくらいの偏差値だから早稲田に入れるかもしれぬが東大はちょっと、みたいなことを言われてくよくよするような虚子ではなかったのです。虚子は自分の息子をそもそも漁師にしようと思っていたのですから。
 はなから西洋受け売りの芸術論などなんの価値もキョーミもなかったのです。
 
 そもそも桑原氏はこの論説によって戦後の近代文学の精神的支柱として文化勲章を授与されたのですから、一応攻撃してよかったということになり、伝統芸術の封建制の批判としても、歴史に一石を投じたということのようですから、先行投資としては結構なメダル受賞であったといえます。
 ただし、現代においては結局、虚子のいうような第13芸術たる俳句が跋扈しているのです。良いも悪いもないのです。民衆はいろいろなむずかしい論理は帝大出の学者様にまかせてせっせと子作りにはげんでいたのでした。
 
 そもそも、明治におきまして、西洋文学の影響=子規の時代
 という概念があります。
 たしかに当時の文明開化的感動はたいしたものだったのでしょう。そして、子規もまたその意識を強くもって俳諧の革新に邁進してゆくつもりだったと思います。

   鶏頭の十四五本もありぬべし    子規

 の、「べし」に決意があります。茂吉も健吉もこれらの俳句未踏の領域に西洋の瞬間と、新しい文明開化の光りを見たかったのです。
 虚子もあまり好まなかったけれど、うっすらと気づいていた。うっすらとですが、なんか変な句だなとは思っていた。しかし、後年大家たちがこの句を子規の代表句とするにあたってかなりとまどったのではないでしょうか。
 それは、この句には先の戦争や第ナントカ芸術論をはるかに凌駕する子規の宇宙のような匂いがするからであります。それをうっすらと嗅いでいた。
 これもまた、いずれかの戦争を凌駕する俳句の匂いなのではないだろうかと。

 戦後、三橋敏雄は、

   いつせいに柱の燃ゆる都かな     (S20)

 におきまして、戦争というものをハゲシク永遠のものとしとらえました。もっとも、一般的にはこの時代のものですから太平洋戦争とするのが当然ですが、この句には京都が応仁の乱で燃え尽くされるようなフィクションがあるようでなりません。
 俳句は戦争でもなにも変わらなかったのではなかったのでしょうか。
 
   戦争と畳の上の団扇かな        (S57)

 ここにおいての戦争には、それを凌駕する精神性と日本の美意識との葛藤があります。戦火想望俳句というようなジャンルを越えた存在感があります。
 いっせいに過去の歴史を燃えさせた悲惨なるね戦争をハゲシク昇華させてゆくとこのような俳句になる。
 子規のころの戦争とは異なるけれども、現代の戦争のもっとも日本との接点を俳句の中に存在させ、かつそこに血を流して敗戦させているのです。それをして俳句はとても戦争の影響を受けなかったとは言い難い。

 しかしです。
 それを国という地域の戦争として、人の戦争として見たからではないでしょうか。むしろ応仁の乱からのものであれば、国以前の地域以前の歴史的戦争になったとした、はるかな時空を諷詠してとしたらどうでしょうか。
 虚子の雰囲気というものにはそういう匂いが常にあります。そうです、つらぬく棒の如くあるのです。
 戦争というものを千年間に見立てる棒とでも申しましょうか。
 こういうものが貫いている俳句としてみたならば、先の戦争もその瞬間のものとして切り取れたのではないかと思うのです。

   永遠に生きてゐるなりおおはんざき   敏雄

 氏にはこのような句もあります。
 私が好きな句なのですが、ご本人はえへへと笑われてあの世へ行ってしまわれた。
 このオオサンショウウオは永遠なのです。そう、芭蕉の夏草のように。あるいは虚子の棒のようなものです。
 戦争などを経ても、日本のあちこちの清流に生息するサンショウウオ、その大きさが1メートルにもなるこの生物には戦争は及ばない。
 及ぶと思っているのは人だけで、すくなくとも太平洋戦争は及ばなかった。おそらく第1次世界大戦も朝鮮戦争も。
 
 三橋氏は現代俳句の重鎮として、戦争というものに対峙してきた。その根源と俳句伝統との決闘を作品の中で実践してきた。そして、前衛俳句の旗手ともいわれてきた。しかし、その結果として、大きな時空に出逢い、ぐるりと廻って、虚子と同じ戦争の宇宙を共有したのではないでしょうか。
 子規が無意識のうちに作った十四十五本の宇宙と同じような化学反応がおこったのではないでしょうか。
 
 現代俳句の勃興。
 いわゆる現代俳句というものは、このような戦争を乗り越えてきたのだと思います。特に、それがどのような派閥の俳句であれ、とにかく現代という社会になってしまったという意味で。
 戦争を経たわれわれは、資本主義国家となりますが、自然もまた資本主義国家となったのでありましょうか。
 否、国家も自然もしょせん日本なのです。
 いろいろな荒廃にさらされていますが、おそらくそれは地球規模のこと。俳句にとっては、なんとかそれを回復したくとも運命にまかせるしかありません。
 なんと微細な存在と思われるかもしれませんが、人のやることはこの微細くらいが良いのです。世界を征服したと思っている人も、30億人くらいいるかもしれませんが、しょせんは夏草の勝ちであります。
 夏草も無くなった場合でも、砂丘の砂の勝ちであります。

   銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく     金子兜太

   枯山に鳥突きあたる夢の後          藤田湘子

 この二人の俳句を見るに、前者は人の後者は人と自然の葛藤と和睦をみているようです。人と自然は葛藤して自然の勝ちになるのが理想ですが、戦争や環境破壊などにより人の勝ちも視野に入れねばならなくなってきた。
 人には心というものがありますから、最後の兵器としてその心をもって人を敗北させることができないだろうか。
 そんな二つの俳句に見えてしかたありません。
 
 ところで、虚子曰く、
 「自分の死後の俳句は、いずれ月並にもどるであろう」
 と申しております。まったく今必死にやっている俳人たちに失礼ではありませんか。その曾孫として私が唯一憤慨しているのがこの言葉です。(唯一というわけではありませんが)
 もっとも、今の私の俳句にかんすることを見て、ひょっとするとこいつが一番月並みにしてる張本人ではなかろうかと仰る方もいるかもしれません。
 それはそれで肯うといたしまして、すくなくとも現代俳句を絶滅も月並みにも戻すつもりはないのです。やむを得ない場合は切腹をすればよろしい。
 その場合、この世から抹殺すべきです。
 死を待たずに殺してしまえばいい。そして、別種を別腹に産ませることになりましょう。その時に戦争があればもっといい。はたして、その戦争が初めての俳句に影響を及ぼすことになるかわかりませんが。
 但し、それを今までの単なる戦争とお考えのむきは古い古い。

 精神的な戦争であります。
 21世紀には俳句のような短詞型をそのまま生かすためには、人心にたいして戦争をせねばなりません。先祖還りです。日本人に帰れということです。というより、先ず猿に帰れということです。俳人はみな猿に帰らねばならない。そのための精神を破壊する戦争をおっぱじめようではありませんか。
 

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