虚子伝来
 坊城俊樹 空飛ぶ俳句教室俳句教室           
       vol.11  2008/02/08  

 「運命論」

 俳句というものをやるきっかけというものを考えてみたい。
 日本に俳句・俳諧が存在してから七百年はたっている。その間にいったい何人の人がこの文芸に手を染めたのだろうか。その膨大な数をして二十一世紀まで継続させてきた俳句の魅力とはいったい何であったのだろう。
 俳句をやる、と一言に言っても千差万別である。年に一句作るひともいれば、何万句作る人もいる。あるいは鑑賞するだけや、研究の人もいる。
 ともかく俳句をこの世から無くしたくないという前提に立てば、日本に日本語が存在するかぎりこの文芸を遺す義務が我々にはある。
 いわゆる俳人、特に現代俳句の専門的俳人はつねに難解なトーンで俳句を作り、解説し研究する。それは一般との差別化としては有効であるが、俳句というものの本質は常にそのような高度な論理で展開されるべきものではない。

 人には情がある。
 自然にも情がある。
 その二つの情の上に存在するものが俳句である。
 その情がある以上俳句は消え去らない。逆に言えば、その情が無くなれば俳句も消滅するだろう。
 そこのところが俳句を作るという大きな存在理由になってくる。
 つまり、花が咲けば花を愛で、雨が降れば憂い、大風が吹けばおののき、恋人と別れれば悲しみ、親や友が死ねば嘆くというあたりまえの感情が俳句を作らせる。
 
 ところで、俳人とは何なのか。
 俳句をやる人が俳人であれば、学校で一句作った小学生も俳人になってしまってあまりにも気の毒。皆からいじめられてしまうかもしれない。
 では、一日一句以上作れば俳人なのだろうか。どのような数値をもってしても俳人などの定義は無いのである。
 つまりほとんどの場合俳句のプロフェッショナルは日本に存在しない。俳人と俳優とは見かけがだいぶ違うが、プロという意味においても異なる。つまり現在俳句だけを作って暮らしている人は皆無に近い。その意味でプロ不在の文芸である。
 だから桑原武夫氏のような第二芸術論に発展するということはない。俳句とはかくもプロアマが曖昧となっている大衆文芸であると言っていい。
 一般の人は一般の人なりの俳句があるし。専門俳人には専門俳人なりの俳句がある。ただ、最近の流派ばやりではないが俳句の優劣が専門家に偏るわけでもないし、初心者向けの総合誌もあるように俳句とはその底辺こそが原動力である。
 そこが大リーグなどと異なる日本的集団幻想構造である。みんなで楽しくやって、その中から先生が出てきてちょっいとその人を持ち上げて選句でもしてもらう。その辺が俳句人口の多数派になっているはずだ。
 ところで、最近は歳時記の検定試験を提案している人もいる。それはそれでおもしろいが、歳時記知識の優劣を競うと偏差値教育に似てくる。俳句は季語の知識を競うものではない。それは専門俳人にとっては必要なものだが、一般の人の中では分かれるところだろう。男性で高学歴の人は好きそうだ。田舎の片隅で長年山に登って俳句を作ったおばあちゃんは迷惑なことだ。もしそれで、公民館の俳句の先生をしていて検定一級がとれなくなると、どうせ若い人たちは馬鹿にしはじめる。
 俳句とはそういうものではない。
 そこに知識偏重の入り口があって、詩であること、特に一般の知識と語学力を持っていれば充分に楽しめる庶民の詩であることを忘れさせる全体主義を感じる。
 もう一度言うならば、俳句はピラミッドを構成するほどのプロとアマの厳然たる差異が無い。しかるに、多くの底辺を為す人と専門俳人との差は、少なくともイチローと少年野球の子との差の万分の一だろう。その小さな差異を厳然と開いていると主張しているのが、今の専門俳人なのである。小心なのである。
 歳時記検定そのものはなかなか面白いゲームだ。
 その程度のお遊び程度の考えで私も受けてみようかな。三級くらいは獲れそうだ。

 さて、俳句を初めて作ったことをみなさんは覚えておられるだろうか、

 ぼくはふろすいかはばけつですずしそう  俊樹
 お恥ずかしながら私の処女作である。山中湖畔の虚子の山荘、老柳山荘の五右衛門風呂にての作品。とにかく、熱かった。
 伝統派の俳人は季題の西瓜と涼しいが季がさなりだと主張して添削しようとするだろう。もしそうなっていたら現在俳句をやっていない。作品にどのような瑕疵があろうともそれを平気でいじる大人が教員上がりを中心に多いが、子供の俳句にはそれをやらないほうがいい。子供の俳句とはまだ純粋の詩に近いのだから。
 
 しかし、この俳句を始めるという命題は大人も子供もないわけだから、ここは楽しみまでの第一段階の俳句とその後の専門的にやってみたいという第二段階に分けて考えてみたい。

 具体的には、一般人の入り口と専門家との入り口に区別して考えてみる。何故なら専門俳人としてその力量が問われる時代が来るかもしれないのであって、初心に返ってもう一度俳句をやる運命を見定める必要があるからだ。
 

【一般編】

  俳句は一般的には小学校の国語の授業かなにかで触れるのが最初の出逢いであったと思う。その後、十代のころに俳句を好んでする人はそう多くない。
 俳句という短詩型文学を選択するに現代とはあまりにも多くの誘惑が他に存在するからである。
 その多くの選択肢の中で俳句を選ぶ理由がかならずあるはずだ。

 何事もそうだと思うが、俳句が好きだということがたった一つの条件であることは明白。しかし、どうしたら好きになるのだろう。そのためには俳句の特徴的な要素を考えてみた。

●短い(世界一短い)
●季節感がある(日本の季語・季題)
●だれでもできる

 簡単に言ってしまえば、そのようなところだ。それらが好きになるかどうかということなのだ。
 人はだれでもできることを好きになるとは限らない。自分だけができる才能を訓練して立派な芸術家や職人をめざす人は多いだろう。だれでもできるとプライドがある人はそれを踏みにじられたような気持ちになるだろう。社長をやっていて用務員さんに俳句では負けるからである。
 季節感といっても、はなから自然なぞに興味を持っていない人もかなり多い。東京都の町中の商店街を見ていても七割程度はそのような人々だ。冗談じゃないそんな悠長な事いって生きてられない。有閑マダムじゃあるまいしと言うサラリーマンもいる。受験戦争で深夜まで勉強させられている子供もいる。
 短い詩形というのも好きずき。俳人はたいていが作家崩れだ。かくいう虚子もそうであった、私などは崩れるところまで行っていない。大小説や論文を目指す人には不向きな詩形だ。
 しかも最近の言葉や文献はいかに論理的に解説され緻密な思考と判断などが求められる。十七文字でその裏を読めなどと言ったらすぐ左遷である。ディベート能力は資料を完璧に補完するものであって、詩というあいまいな思考回路こそ国の発展の障害となる。
 
 つまり以上にあげたような人たち以外のものを持った人が俳句に入りやすい。
 大衆の中に埋没しても、部下に負けても、妻に叱られても雑踏の中で空を見上げ。会社では口べたで出世せず、パソコンで資料も作れず、ただニコニコと差別なく花や鳥を愛でることができる人が俳人になる資格を持つ。
 そして何よりシンプルであっさりと死んでいきたいような人がもっとも俳句に入りやすいのである。
 それを大人(たいじん)という。
 そういう人がかならずしも専門俳人になる必要はないしなりたいとも思わないだろう。楽しく美しくおいしい物を食べて俳句を作り続けていただきたい。路地の熊さんも八っつぁんも皆こうやって俳句を作ってきた。そういうあなたがたが俳句文化を支えている本人なのだから。

【専門編】
 
 専門家というのも口はばった言い方だが、一般と異なるのは、その後俳句を続けるにあたってどのような道筋を歩んで来たか、あるいは歩むべきかということ。
 ここで技術論になるのもあまり面白くないので、小生の例をとってみて壇一雄風の私小説的に考察してみる。
 
 題して、

「わたしを俳句に連れてって」

 何かが誰かが私をして俳句の道へ押し進めているように思えてならない。
 それは私が以前勤めていた会社を退職する前にも後にもあった感覚なのだが、何かが誰かが私の糸を操って私を俳句の世界へたぐり寄せて、あるいは文芸の方の世界へ手繰っているような気配は感じていた。それは何故なのかしらんと頭の隅に思いつつも、以前はさほど気にならなかったのであるが、ここに来てどうやらそうした何か天上か身体内部からの作用というものをはっきりと感じるようになってきた。

 だからと言っても私自身がすでにして俳句の世界に全て適合していると言う浅はかな結論に達することは到底無理な話なのだが、ただ恐らく四十歳を過ぎる頃から漠然と考えていた俳句を通しての定められた道のようなものの準備がされつつあるという感覚にとらわれている。

 ただ単に私が俳句の血族的な理由であること以外にももっと長い年月を経て紡ぎ出されているような蜘蛛の糸のようなものが我の身に巻き付いているような気がしてならない。 しかしあくまでそれは他からの働きかけであって自から吐き出される情念というものとも違うような気がする。ましてや、血族であることによる独特のレールの上を泰平な顔付きで順風満帆に過ぎて行く俳句お家芸的なものとも違う。

 私自身は恐らく近い将来壮絶な試練の坩堝の中に渦巻かれて行くに相違なく、そこで沈没すればただの溺死体としての運命でしかなく、私を操っている天上の何かはそれを充分承知の上でからりからりと試しの糸を手繰っているに違いない。

 簡単に事が進んでいるとも思えない。全てが背後霊のなせる技であると考えるのは余りにご都合主義でありすぎるし、世の人々から嘲笑の的になることも明白である。つまり常に自分に好意的な天上とは限らない。かつて私を憎んでいた人の意志もあるかもしれないし、自身の輪廻転生における、つまり過去のあらゆる悪事に対する一種の報復として操られ、それを唯一私の味方であるかつて飼っていた犬が私を支えていてくれているのかも知れない。

 何れにせよ破滅への方向へ向かっているのか求道達成の方向へ向かっているのかは知らないが人智を越えた何かがやはり私をこの職に就かせ俳句を手段とした何かをさせていることだけは明白な事実である。

 うんと若いころ、私は漠然と文字を使った仕事、特に小説よりも短い文章を使った作品を仕事の中に持ちたいと思っていた。現代では広告文などがそれに当たるが、この俳句というものこそが最も短い文章として世に知られているという概念は私の無意識にはあったかもしれないが、意識して俳句の道ということは考えてもいなかった。

 しかし当時作家某の甥である友人に、「おまえは絶対に会社をやめて創作の方面へ行く。」とも断定され、また別の友人には「おまえは表現者として生きて行きたいと心の中で思っていていずれ我慢ができなくなるはずだ。」とも断定され、知らず知らずのうちに私を取り巻く環境が俳壇の淵へ流されて行くようであった事も事実である。

 虚子と尾崎咢堂とがあの世で画策し曾孫らを通じた俳縁を紡ぐならば次が面白い。妻のほうは自由民権運動の政治家、尾崎咢堂の一統なのであるが、虚子もまた松山時代に幾度か咢堂の演説を聴きに行っている。

 虚子の「俳句の五十年」という著書の中の『学生の気風』という文章の中に、
 ・・演説会を開くといふやうな事も、その頃の学生の一部の流行でありました。私達も夜になると一銭か二銭の会費を出し合ってお寺を借りて蝋燭を立てて、聴衆も余りない所で演説会を開いて子供のくせに天下国家を論じた事もありました。
 今の尾崎咢堂が新栄座といふ芝居小屋で演説をやった事があって私もそれを聞きに行った事がありました。別に政治家になりたいとも考へなかったのですが、さういふものも聞き逃すまいとする熱意はありました。・・・・・

 天上の者は私にとって多数の善意悪意両者であるかもしれないが、何れにしても私はこの運命を求道するに相違なく、恐らく次世紀の俳句界において何かをせねばならない指令のようなものを生を与えられてより遺伝データに書き込まれてしまったのかもしれない。

 わたしを俳句に連れてって。


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