虚子伝来
 坊城俊樹 空飛ぶ俳句教室俳句教室           
       vol.12  2008/03/08  

 「虚子と漱石」

 虚子の俳句というものの根底には子規の俳句哲学が流れている。
 しかし、その哲学とはまた異なった文学の影響も受けていた。それは夏目漱石の影響であった。
 俳人たちは小説家とは一線を画したがるが、一種のコンプレックスではないだろうか。その才能を恐れるあまり、大小説家などと同席したがらない。
 その点虚子はなかなか鈍感なところがある。子規は子規、漱石は漱石としての良いものをどん欲に吸収してしまうようなところがある。
 歴史のifだが、もし漱石との出逢いがなかったならば、虚子という存在もなかった。子規の存在はあったかもしれぬが、碧梧桐の存在もなかったろう。
 虚子の本質にある小説への思いというものはかなり晩年まであった。それは写生文などへのこだわりに現れ、先に書いた『虹』などの文章に結実している。
 文化勲章を昭和29年に受章したときの、

 我のみの菊日和とはゆめ思はじ    虚子
 この句の思いとは、子規や漱石、碧梧桐たちへの思いが重なってできたものだ。その歴史を振りかえると、明治20年代におこった虚子周辺の出来事がその人生のすべてを決定することになる。
 

 その出逢いとは、虚子がまだ旧制の中学生のころであった明治24年あたり、松山の子規の帰省先らしい。
 漱石や子規らは「松山鮨」(松山の人に聞いたらこれは魚が入ったちらし鮨のようなものらしい)を食べていた、子規はあぐらをかき、漱石は几帳面に膝を正しく折って、正座して、松山鮨の皿をとりあげて、一粒もこぼさぬように食べた。
 このあたりに子規と漱石の性格の違いが見えていて面白い。虚子も食べたようだが、まだ年少すぎてどんな味だったかはすっかり忘れてしまったようだ。

 やがて明治28年に漱石は大学を出て、松山の中学校教師に、いわゆる「愚陀仏庵」の一階に子規、二階に漱石が住む。
 その時歴史は動いた、ではないがこの二人の天才の同居とは日本史の奇跡ではなかろうか。

「大学を中途で退学して新聞社に入り不治の病の子規居士と素直に大学を出て中学の先生としていそしみつつあった漱石氏とは、よほど色彩の変わった世界を、階段一つ隔てた上と下に現出せしめておった」虚子

 七歳年下の虚子との交友はこのようにして始まった。
 その後、虚子帰省、漱石ともう一人英語教師とよく道後温泉にゆく。赤シャツはそのときの話題になったらしい。その先生のシャツかは不明だが、ただ虚子の猿股にも赤い筋が入っていて
「君のも赤いのか」と漱石が言ったとか言わないとか。

 ところで虚子は漱石と神仙体という新しい俳句形態をそのころすでに始めていた。そして道後温泉の帰りに句を拾いつつ創作、村上霽月とともに雑誌「めさまし草」に出す、

 怒濤岩を噛む我を神かと朧の夜   虚子
 このような難解な俳句。

 明治29年12月5日付の漱石からの一番古い手紙と思われるものがそれに触れている、
 「来熊以来はすこぶる枯淡の生涯を送り居り候。道後の温泉にて神仙体を草したること、宮島にて紅葉に宿したることなど、みな過去の記念として今も愉快なる印象を脳裏にとどめ居り候。今日『日本人』31号を読みて君が書トク体の一文を拝見致しはなはな感心いたし候。立論も面白く行文は秀でて美しく見受け候。この道にしたがってお進みあらば君は明治の文章家なるべし・・・略
 『世界の日本』(竹越三叉刊行の雑誌)に出たる「音たてて春の潮の流れけり 虚子」と申す御句はなはだ珍重に存じ候。 
 ただし大兄の御近什中にははなはだ難渋にして詩調にあらざるやの疑いを起こし候ものも有之様候。いわゆる「べく」づくしなどは小生のもっとも耳障りに存候ところにござ候」
 この漱石の指摘は将来の虚子の俳句というより、小説にたいする潜在的な働きかけをしているはずだ。神仙体の是非はともかく、難解な俳句や文章は「べく」だらけで理屈家の漱石をもってしてもくどく感じたわけである。もっとも当時のご本人たちの、

 春の夜の琵琶聞こえけり天女の詞    漱石
 仙人臥して陽炎寒し石の上     霽月
 などもずいぶんメランコリックで幻想風で、くどいといえばくどい。

 ところで、明治30年以降となると虚子は漱石の俳句にたいして、蹲踞の態度ではなかったのではなかろうか。むしろ子規とともに漱石の俳句に朱筆をとって○や△をつけたくらいなのだから面白い。

 菫程な小さき人に生れたし    漱石
 虚子も、後年は文壇の権威であった漱石も、熊本五高の教師として赴任し、当時はわずかに東京の俳友の消息を聴いて慰撫していたのは愉快だと言っている。

 やがて、漱石は海外へ行く、明治33年9月文部省から二年間の留学派遣であった。
 その航海上からの手紙、
「 航海は無事にここまで参り候えでも下痢と船酔いにて大閉口に候、・・略・唐人と洋食と西洋の風呂と西洋の便所にて窮屈千万、一向、面白からず、早く茶漬けと蕎麦が食いたく候、」  明治33年9月「ホトトギス」
 なんともはや、往きの航海上でもう船酔いなどで外国がすっかり嫌になっている漱石先生なのである。
  もっとも、漱石は松山や熊本も本来の自分の居場所ではなかったと思っていたはずだから、この英国留学には大きな期待感はあったはずで、彼の超人的な神経質がそうさせたのに違いない。
 
 白金に黄金に柩寒からず 漱石
「女皇の葬式は゛ハイド公園にて見物致し候。立派なものに候、」などと言って暮らしていた漱石もその翌年には、

吾妹子を夢みる春の夜となりぬ 漱石
「もう英国はいやになり候、」といった調子であった。
              明治34年5.6月「ホトトギス」「倫敦消息」
  しかし、この「ホトトギス」掲載の消息はたいがい、病床の子規宛のものであって、このような西洋の消息をくわしく送ることに子規をすごく喜ばせる。絵はがきや下宿生活の様子なども詳細に送った。さぞかし病床六尺の子規にとって世界の窓口になったことだろう。
 が、やがて子規は死ぬ。
 漱石が帰国したのは明治36年1月、その後一高の教授、大学の講師となる。やっと都に帰ってこれた漱石先生であったが、どうも帰朝後も神経性の病は続いていたようである。
夫人曰く、
「どういうものだか、この頃機嫌が悪くて困るのです。・・略・・ あなたも暇な時にはチトどこかに引っ張りだしてくれませんか」
 そして漱石と虚子は芝居や落語などを見に行ったが、あまりにくだらないと我慢しきれずに様々の冷評をし、虚子にたいしても君はこんなくだらない物を見ているのかと言う。
 せっかく後輩に連れていってもらってるのにねえ。ただし能だけは「能は退屈だけれどもが面白いものだ」と言ったのも漱石らしいけど。
 漱石の不機嫌に馴れていた虚子だが、こんなことをしていてもあまり進展はないなと悩んでいたようであった。
 
 そこで、「猫」の誕生なのです。
 「山会」というものが「ホトトギス」にあった。(もっとも今でもあります)
 子規以前からあった文章会で、文章には山がなくてはならないという趣旨。ふつうは写生文が主流であって、いわば日記や作文的なものが多かった。普段はその文章を自分で朗読するきまりがあった。それに奇才漱石の文章を推薦みてはどうかと。
 漱石も乗り気で、すごい情熱でそれを書き上げたという。
 ある日その原稿を持ってきて、虚子にそれを読んでくれたまえと言う。ちょっと自分の気に入っているらしい部分になると、
「うふふ」
 と漱石は笑う。
 虚子は少しぎょっとしたが、数十枚の原稿用紙の長いものの、とにかく変わっていて面白かった。
 タイトルは始めの、「猫伝」の候補にたいして「吾輩は猫である」はどうかと提案した。そうタイトルは虚子が決めたのであった。
 明治38年1月発行の「ホトトギス」巻頭付近に掲載、これより歴史が始まる。
 
 漱石の教師を辞めたいという意志はその後顕著になる。
 なにしろ爆発的なその小説の反響と売れ行きに、虚子と漱石は発行人と小説家という関係に変化。虚子はその寄稿に頼らざるをえなくなってゆく。
 一方、漱石は門下生を推薦しその要求通り三重吉などの処女作が掲載されはじめる。これなども喝さいを受けた。しかし、四方太などは山会の純正写生文の雑誌としての伝統と異なると反感をも持ったようだ。
 そして明治40年頃からは新聞社社員として教師を辞職して小説家一本となる。その後のことはもう触れなくていいだろう。

 虚子は漱石が朝日新聞に移った後は「ホトトギス」に掲載がなくなり、また健康上の理由もあり、その経営に四苦八苦する。それもまた歴史の必然だったかもしれない。
 一種の歴史のレトリックにはまった虚子はその生涯で、二人の巨人と出会った。それがすべてではなかったが、今の俳壇を形成する多くの歴史はこの二人と七歳下の少年の出逢いが化学反応を起こしてビッグバンとなったものだ。
 多くの歴史もそうであって、松山の奇跡は秋山兄弟などの軍人たちも巻き込み、維新後の大きな潮流となってゆく。
 歴史とはそういう天才の衝突で決定されるのであろう。



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