虚子伝来
 坊城俊樹 空飛ぶ俳句教室俳句教室           
       vol.16  2008/07/08  

 「俳句と川柳」

 俳句とは、
 「@俳諧の句。こっけいな句。
  A五七五の一七音を定型とする短い詩。連歌の発句の形式を継承したもので、季題や切字をよみ込むのをならいとする。明治中期、正岡子規の俳諧革新運動以後広まった呼称であるが、江戸時代以前の俳諧の発句を含めて呼ぶこともある。短歌と共に日本の短詩型文学の二潮流。定型・季題を否定する主張もある」『広辞苑』

 川柳とは、
 「(川柳点の略から*)前句付から独立した一七字の短詩。江戸中期、明和ごろから隆盛。発句と違って、切れ字・季節などの制約がない。多く口語を用い、人情・風俗、人生の弱点、世襲の欠点等をうがち、簡潔・滑稽・機知・諷刺・奇警が特色。江戸末期のものは低俗に堕し、狂句と呼ばれた」『広辞苑』
*・・・・柄井川柳が前句付に施した評点。また、その選句。略して「川柳」とも。せんりゅうでん。

 これらを呼んですっと入ってきて、俳句と川柳の本質をいえる人がいたらそれはかなり勉強している人。
 どうもわかったような、わからないような解説である。俳句はジャンル説明のようで、川柳はその内容の説明のようで観点が違う。「切字」と「切れ字」というように表現が異なるのも広辞苑の書き手が別人なのだろう。統一すべきではないか。
 
 そもそも、俳句と川柳の区別をする前に大前提がある。
 人として俳句的な人と川柳的な人がいると思われることだ。

 俳句的な人間とは、先ず以て四角四面な人である。そして例外なく俳句のセレモニーなどでも背広姿は欠かせない。
 性格は几帳面であって、清貧を好む。そして何より「清貧」や「世に疎い」といった言葉を俳句の中にちりばめるのが好きだ。
 社会的弱者でもないと思うが、そこに美意識を感じ、一種の偽善的俳句観に立っている。いわゆる優等生的な人種のために、人生は石橋を叩いてゆく性行がある。そのためか、他人にもそれを強制する風があり、そうしない他人を倫理観から攻撃をしたりする。
 高齢者が多いということもあってか、思いやりの精神に溢れる。病気にたいする作品化も顕著である。いわゆる「恙ない」という言葉の作品化である。ともにその病への共感を得るという共同作業を念頭におく。そして、弔句にあるように、その存問の形態として死を最高の美意識で飾る。
 詩人のような解脱したような倫理観や美意識は好まない。いわば、詩人とはスポーツ選手以上に遠い存在でもある。そこにはジャンル分けという概念が厳然として横たわっているのだろう。とかく、俳人というものはジャンルにこだわる傾向にあるからだ。
 その結果重箱の隅をつつくような事項に重きを置くことになる。そうしないとジャンルの壁が崩壊してしまうからである。そう、有季定型という確固たるジャンルに君臨するための作業なのである。
 また、組織的に強固であることを好む性質も他の文芸より強い。いわば群れるのである。羊のようにとは申さないまでも、ジャンル・流派毎に群れる。その中にまた、多くのセクトや傾向があって、そのボスは配下の俳人を統制する。特に男性にその傾向が強い。女性のほうがそのあたりはややゆるやかである。
 しかし、共に組織にたいする謀反や革命などにたいしては敏感である。政治結社などもそうであるが、政治ほど複雑でない俳句の作業であるのでその革新性などを検査するのは容易だ。そのためかその傾向のある者を抽出し、村八分のような状態にする。
 つまり俳人の特性は日本古来の村社会のそれに類似する。
 俳句的人間は几帳面で誠実である。少なくとも誠実であろうとする。そのためか、人を裏切るということはしない。少なくともその本人の前で裏切るような行為や言動はしない。
 ましてや同じ流派などで大同団結をしている友とは仮に共同幻想といわれようとも、信念を確認しておなど川に流れることを最上の喜びとする。
 その意味では群れるといういいかたは失礼かもしれない。もっと血を分けた家族のような絆で文藝の浪を乗り切ってゆく所存なのかもしれぬ。

 俳句というものは、ご存じのように五七五で季語・季題というものを要する。したがってその季節感という部分においては季節に敏感である人が多い。
 それは皮膚感覚の季節感もそうであろうが、どちらかというと歳時記的な季節感である。
 歳時記の博学であることがその感覚の源泉となる。いわば、辞典的な季節感であって感性的・皮膚感覚的でないということは頭の中で構築された季節感といっていい。
 季題は歳時記の中でいろいろなものに分類されている。それらをいかに記憶しているかはこの人たちにとって重要である。いわばイスラムの教典でありクリスチャンの聖書のような存在である。それを疑うということは許されるものではない。
 つまり、俳人、特に有季定型俳人とは偏差値教育、とくに知識・記憶偏重の教育に適した人種であるともいえる。したがってアバンギャルドでアナーキーであると思われる詩人とは一線をかくさざるを得ない。
 感性というものを個として重要視するとも思えない。したがって、感性に頼ってばかりいる人を信用しないという特性は共通している。
 すなわち、その理論などは知識と事実の裏付けを中心とした考察がすべてである。そこに感性などの要素を盛り込みすぎるとそれは異端とみなされる。
 異端こそが俳人にとっての致命傷である。お釈迦様の手のひらの上で遊ぶのはよろしいが、異端となってその手からこぼれてしまえば永遠に復帰はない。
 たしかに、このように世界最小で季語などの規制の強い小さな文芸を維持するにはその異端はとても危険な分子である。その伝統を維持するには一人の人よりも多くの人の共同作業によって異端を排除する必要がある。だから俳句の結社というものが重要になり、この暗黒結社性になじめない人は俳句そのものになじめない異端であるとする。
 結社というものはそもそもサロンのようなものである。俳人はそのサロン性というものを好む傾向にある。それも群れるというか、ファミリーとしてのゆるやかなサロンであって、けっしてマフィアのような血の結束ではない。
 人種としてはあたたかいスープのようなサロンを好む。そこに連帯感が生まれ俳句作品も生まれる。それも結社を一色にするあまり暴力的でない平和な手段のひとつである。
 あたたかく微温的なスープは「井の中の蛙」的な者をつくるという欠点もある。そのスープにひたっていることは快感であるからだ。俳句というものの本質にもそういう部分はある。群れつつ美意識などを共有することはこのスープは大切であるからだ。
 同じ価値観というか、ある程度同じ美的センスで俳句を流通するには異なるスープのジャンルの人は邪魔である。それは、また日本的なセンスでもある。村八分というと聞こえは悪いが、そのためのスープであることも否定できない。それを構成するメンバーの価値観や顔つきも似ていなければならず、趣味や嗜好も共通するほうがよりベターである。
 すなわち、俳句結社などの集会で急にローリングストーンズの話題やハッシッシの話題をする時点でその人は排除される。共通の倫理観からもっとも遠い人として復帰はない。
 つまり、個人主義で欧米的な発想の人は佳き俳人になりにくいのかもしれない。そして、博学であっても感覚的である人や哲学的であったり、芸術家肌であったりする人も本来のこの集団からは遠い人種とみなされるかもしれない。
 ある意味で素直という言葉が重要になる。それは主宰にたいするものだけでなく、歳時記というバイブルにたいするものも重要である。当然であるが、大人になってのその素直さが形成されるのはなかなか難しい人格もある。
 より若いときから先達にたいする素直さが訓練されているほうが好都合であろう。作品にたいする感受性なども素直であるほうが貴ばれる。感受性が複雑多岐になると流派の維持が困難になるからである。
 素直は従順とはイコールではないが、似ている部分もある。特に若者が俳人になろうとするときにはこの資質が求められよう。従順でなくて反抗的な若者にたいしてのこの門戸は狭い。
 自分一代で俳句に入門し、それを改革しようとする若者には組織としてつらく当たらざるを得ないだろう。したがつて、若者は二代目や三代目であるほうが好ましい。特に、主宰などの血族である若者への窓口は広い。
 血族であることの安心感と、革新的な若者であることの確立が低いとみなさりるからである。その部分も生まれてからの環境やDNAの信奉によって、スープを乱すようなことは無いと考えるからである。
 ましてや歴史的な俳人の直系の者ならばその伝統を破壊することの確立はまず無いと考える。それもまた当然のことで、異端者や異宗教、異民族であることはほとんど無く、同一の価値観の伝統に裏付けされているからである。
 しかし、はたしてそれが俳句の将来にどれだけプラスになるのかの検証はおこなわれていない。一種のタブーであるからだ。
 結論からいえば、それも波風を立てないという形式としての伝統には当然の考え方である。五七五という定型や季語・季題の約束が守られなければ俳句という形態は消滅してしまうからである。
 
 以上をして俳句的な人の考察とするが、むろんこの枠に当てはまらない人もいる。そのような人が立派な俳人になっているケースもある。しかし、それは少数であって俳句文化というものを変革するほどではない。
 つまり俳句に適している人材というものは、小説家などと異なり短詩を無数に作るグループの細胞の歯車のような存在である。その歯車が癌細胞のように自己増殖して身体を破壊することは許されない。
 その規律正しい人格をこそ求められるのであって、自己本位な感覚をこそ憎むというのも当然のなりゆきなのであろう。そういう意味で俳句および俳人というものはもっとも日本的な人格を求められている。これからの日本の人格が変貌してゆくとしても、もっとも理性的で良心的なスタンダードとして国民の記憶に残るものと思われる。

 さて、川柳的な人のことである。
 正直私は俳人の片隅に居る者なので川柳人はわからぬ。
 わからぬけれども同じ五七五を営んでいるのだから、そうかけ離れた人種・民族ではなかろうと思う。短歌的な人と比べてみてもその精神性は俳句的なものに近いと想像する。
 しかるに兄弟、姉妹のようなものであろうか。その時に考えるのは俳句の季語・季題の必要性である。大いにそこが異なるのである。
 ここで、国文学者の江口孝夫氏による川柳の特質に触れておこう。
 曰く、
●川柳とは時代の流れ、時代の思潮に沿って生まれたもの
●なんでも思っていることを詠う
●表現のおもしろさ、楽しさの上に万句合という興業も行った
●課題として人間生活全面が題材になる
●風刺はあるが政治への風刺や批判よりも社会的弱者への穿ちなどが主
 他にもいくつかの特質があるが、主立ったものを挙げてみれば、先ずは川柳とは俳句とくらべてみると自由であるという気がする。
 娑婆っぽいという気もする。人生を楽しむためのものであって、しかつめらしく倫理観に頼るものでもない。時代とともに洒脱に軽く流れるものでもあったらしい。
 しかるに、俳句的な人とくらべると川柳的な人も違いが見えてくる。
 簡単に言ってしまえば、流行に左右されやすく、ものごとをはっきりと言い、おもしろいことが大好きで、人間に興味があって、お上には弱いが下々の人との共感があり、いわば庶民であってダサくて、あまりお勉強ができなくても人情あふれるような人種をいうのではないだろうか。
 俳句的な人は筆者自身が俳人であるため、ある程度の予測ができるのである。しかし、柳人となるとその全体像がつかめない。ただ、比較論をするならば、俳句的な人が懐古的でエリート的な意識を持つにたいして、川柳的な人は現代的で庶民的な側面を持つのではないだろうか。
 どちらが良いということでなく、どちらに貴方が合っているかという問題なのである。

 そもそも、俳句と川柳は発句と平句との関係から数百年前に別れた兄弟のようなもので、そこにもう少し親密な関係があってもよろしい気がする。
 エリートたちだって、最初は取っつきにくいと思うが、案外親密になればいいやつかもしれない。庶民的だからといって実は博識であって、酒を飲んだら議論伯仲するやもしれぬ。
 とかく先入観を持ちたいそれぞれの日本人。そろそろその垣根を取り払って未来への議論をする時代に入ってきているかもしれない。

 追伸・作品論は次回以降に


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