虚子伝来
 坊城俊樹 空飛ぶ俳句教室俳句教室           
       vol.18  2008/09/08  

 「俳諧大要」

 俳句の初心者にとってどんな本を読んだらいいのかとよく聞かれる。
 この文章を読めばいいとはなかなか答えられず、考えてみると、この世には初心者俳句ナントカが溢れている。
 どれも素晴らしく、きっと俳句の達人になるに相違ない。
 しかし、どれもそらく同じような技術論と作品論と歴史論で構成されたものばかりだろう。だから知り合いには一番薄くて安いのを買えとアドバイスしている。
 ふと考えると、だからこそ現今の俳句をする人に気骨が見えないのでは無かろうか。いわゆる、ハウツー本やムック本みたいなのでカルチャー遊びをするのも結構だが、このままではいずれ俳句は亡びるのではなかろうか。
 ここに思うに、今から約百三十年前に一人の血潮に燃えた、しかし、病魔に冒され余命七年余りの青年が書いた、明治の俳句のハウツー本がある。
 糸瓜のような形の頭の青年が書いた本は『俳諧大要』といった。
 その全部を紹介することは出来ないが、俳人の覚悟のようなものこそ本当の俳句文化の源泉であると信じる筆者はどうしてもこの書に触れねばならないと思った。

 正岡子規の『俳諧大要』は俳句をやる者としては一度は意識してしかるべきものである。
いまだやらざる者でも、俳句と文学を目指した明治の青年の一生を賭した文章に触れるべきであろう。
 この書は、現代の俳人たちのバイブルと言っていい。しかし、とても古いものなので、しかもかなり観念的で檄文のような部分もあるので、現代の人はあまり読まないかもしれない。
 人が人を動かして、その人がまた人を動かして、やがて国を動かす。
 そのような近代の文化が奇跡のような日本を作った。それはなにも俳句だけのことでなく、すべての奇跡が奇跡を呼んで日本の国や人が沸騰するようであった。
 この書にはその一端が見えている。子規の書はどれもそうかもしれぬが、この書には子規の俳句未来にたいする遺言が特に含まれている。


 明治二十八年に新聞「日本」に掲載されたものである。当初は「養痾日記」としてまとめられたものだが、そこから独立した。そして、明治三十一年にホトトギス社より刊行した『俳諧叢書』の中に収められた。
 すなわち、子規が従軍記者として日清戦争へ行き、金州まで行った帰りに大喀血した直後に書かれたものである。
 それから病臥することが多くなった俳人は、ここに遺産のような書物を書く決心をしたのではないだろうか。そしてこれから子規の志を継ぐべき世代への教科書の必然性を感じたのだろう。
 子規はその点について、まことに周到である。
 『俳諧大要』は、俳句をしてみようとする人のどのような段階までもこの書にていねいに解説をしている。
 初学のころからエキスパートに至るまでである。修学を一期、二期、三期というふうに区切ってゆく。それに応じた俳句の作り方を解説してゆくのである。
 明治二十八年の段階では、虚子や碧梧桐なども二十歳前後で心許ない。これといった俳壇の継承者も見あたらない。ましてや江戸宗匠の雰囲気をひきずっている当時の俳諧宗匠たちを継承者とする子規ではない。
 近代になってはじめてこういう近代俳句のための書物をして啓蒙しようとした青年子規の並々ならぬ大志がここに集合しているのである。
  ところで皆さんが俳句をはじめるときどんな心境だったのでしょうか。あるいは、緊張し、あるいは馬鹿にし、あるいは適当にはじめたのでしょうか。

「初学の者へ」
 修学第一期
 子規は、その初学の段階である。
「俳句をものせんと思はば思ふままをものにすべし。巧みを求むる莫かれ、他人に恥ずかしがる莫かれ」と言っている。
 俳句にうまくなってやろうと思うのだったら、思ったことをそのままやりなさいよ。好きなようにやればいいのよ。巧んでうまくしようとか思わないこと。とかくうまいへたを気にする人がいるけれど、そんなのきにしてちゃだめ。だから女に持てないのよ。他人にいいとこ見せようと、上手にかっこよくやるからダサいのよ。
と言っている。そんなことより俳句を思いついたら、なんでもいいから紙に書いておけばいいとも。 
 今の俳句の先生のご指導とはすこし、いやかなり違う感じがするだろう。
 でも子規は近代の新しい俳句を目指した。月並み、つまり陳腐で理屈に走り、新鮮味に欠ける旧派のような俳句についてはかなり攻撃した。だから、月並みの俳句についてもこの第一期に指摘している。
 曰く、
「月並に学ぶ人は多く初めより功者を求め婉曲を主とす。宗匠また此方より導く故に終に小細工に落ちて活眼を開く時なし」
 おおっ、なんと耳の痛い言葉ではなかろうか。
 このような旧派でまかり通っている月並の俳句はいかんぞ。そんなので学ぶととにかく初めから技術に走って理屈をこねて、うまく上手にこざっぱりと作ろうとする。中には、きっちり言わないで、もったいぶった言い方や、何かのたとえを使ったり、自分のあてこみや希望的観測なんかを交えて俳句を煙に巻こうなんて奴もいる。
 所詮そのような宗匠に教えられても、小細工ばかりやる癖がついてしまう。活路も開けず、開眼もせずに終わるのが落ちだよと。
 曰く、
「初心の句は独活の大木の如きを貴ぶ。独活は庭木にもならずとて宗匠たちは無理にひねくれたる松などを好むめり」
 初学の俳人は独活の大木のような者がよろしい、とは言わぬが、初心者は独活の大木みたいにヌボーとした俳句を好むべし。はじめから小細工をして庭木みたいなものをこしらえるとろくなことにならん。昔の宗匠たちはそれにあきたらず、盆栽じゃないけれど、ひねった松とかを好んでそういう句を作らせようとする。
 虚子も後年言っていたが、俳句の求められる形は「ぬーっとしたぼーとしたふぬけたような句」であると。おそらくこの子規の言葉を引用したのだろうが、これはどの芸術にもあてはまるものであろう。
 とかく、宗匠俳人は流派にこだわるのあまり、その流派へ向けての技術指導はかかせない。季語季題云々ならまだしも、ここはこういう措辞にして、ここは名詞で止めて、ここは切れ字を入れて、おっとその季題の「椿」は「梅」じゃないといけない。などと言っては、初心者の作品を自分のにしてしまう。
 耳の痛い選者さんも多いと思うが、これこそ子規の言う宗匠の現代版になっていることに気づかされるよい例である。
 曰く、
「宗匠の俳句は箱庭的なり。しかし俳句界はかかる窮屈なる者に非ず」
 いままでのその古い伝統に裏付けられた俳句とは箱庭のようなものである。それは、自由で自然な森林を詠うのでなく、人の手によって飼育されたような疑似自然を詠うものになり下がってしまうからである。
 江戸の宗匠たちの俳諧の時代はまだしも、近代以降の俳句は発句とは異なりもっと自由に諷詠してよい。もう、窮屈な月並の世界から飛躍しようではないか。
 子規はこれから何年生きてゆけるかわからい身体のタイムスケジュールをこの本の中に刻んで、次世代への警鐘の書として冥土の土産にしたかったのだろう。


「専門俳人への道」
 修学第二期。
 エキスパートへの階段。
「利根のある学生俳句をものにすること五千首に及ばば直ちに第二期に入るべし。普通の人にても多少の学問ある者俳句をものすること一万首以上に至らば必ず第二期に入り来たらん」
 かなり優秀なる学生(はたして何故ここに学生たる言葉が入るかわかりにくいが、学識経験者くらいの感じだろうか。子規も東京帝大哲学科および国文科の卒という意識も強く持っていたはず。だとすると結構エリート意識じゃん)であれば五千句も作れば次の段階に進めるのである。
 一般ピープルも少しくらいの学問があって、まあ国語がある程度できれば一万句でその段階へ進めるものだという。
 結構きつい段階になってきた。初学の第一期とはかけはなれている試練である。五千句というと。現代俳人たちの普通のレベルで行くと、五千句とは一日仮に一句作る人で約十五年、もっと作る人でも十年は要する。明治の当時の俳人はもっと作っていたのだろうか。
 ここにおいて、俳句を多作せねばならない。
 虚子も「多作多捨」という概念を用いたが、たくさん作ってたくさん捨てよということ。子規の概念もまたそれに通じる。
 しかし、旧派の宗匠たちの推薦するような松の盆栽的なやりくりをした技巧派の俳句ではそんな数は出来まい。
 そこにはやはり「客観」という言葉が生きてくる。
 観念や主観ばかりではよほどの天才しか、俳句の粗製濫造になってしまう。そこに人は物を見てそれを諷詠するという概念が当然入る。
 デッサンでもいい。
 初学のころに小細工をするとその癖がつくものだ。その癖は生涯抜けないかもしれない。だから子規はここにおいて多作をもってエキスパートたる自然諷詠の道を提唱した。
 子規はまた、
「壮大雄渾の趣は、説き難しといへども(略)空間の広きものは壮大なり、湖海の渺茫たる、山嶽の峨峨たる、大空り無限たる、千軍万馬の曠野に羅列せる、(略)怒濤の澎湃たる、」と表現しては、天地万物の壮大な様をただただ諷詠すべしと言っている。
 第二期といえども、それらの風景を黙々と句作することはなかなかむずかしい。しかし、そのような気根と情熱をもって句作をするのだよという心を感じる。
 単に小細工を排除し、客観の写生をして多作し多捨することを言うのみでなく、ここには子規の現代へ至るまでのメッセージが書かれている。


「未来へ」
 修学第三期。
 「修学は第三期を以て終る。(略)第三期は卒業の期なし。入る事浅ければ百年の大家たるべく、入る事深ければ万世の大家たるべし」
 俳諧の大要として、その修学の人生とはこの第三期にして終焉となる。しかし、この期に卒業というものはない。いわゆる俳人としてのみでなく、後世に名を残す大家として永遠の修行である。しかし、ここに入る者としてその修行浅ければせいぜい百年の大家程度。もし、ここに深遠たる志と悠久の俳句を持ちて入りくれば万世に伝えられる俳人として名を遺すであろうと。
 ここはもう、皆さんの読む領域ではありませんね。
 著者もまた、付録のつもりでおりますが、ただこの明治の漢の信念というものに触れるだけでも儲けものであります。
 はたして、現代までに百年の大家という者は何人出たのであろうか。子規を含めてもそうはいない。この第三期とは、子規の誇大妄想のようだが、逆に言えばそれだけ後世の俳人たちに期待していたということだ。
 我々現代の俳人(まだ俳人でない人もこれを読んだら俳人になるべし)もそれを心して研鑽せねばならないだろう。


「総括」

 この総括は『俳諧大要』の筆者の主観的な抜粋であり、その内容のすべての総括ではない。その俳句のステップアップのもっともシンプルな総括である。
 一般的には子規の天恵たる本書の実践は第二期までで十分であろう。第三期はあえて読者の皆さんへの直接メッセージとはしない。なぜなら第三期は、これから死んでゆく子規の夢。未来の日本にたいする俳句メッセージなのだから。
(初学の十から十五年)第一期
● 他人をはずかしがらず自由に俳句を作れ。
● 先ず俳句とは物を見て客観的に作れ。
● 巧まない独活の大木みたいな俳句を作れ。
● 小賢しい技巧や理屈っぽい月並な感性など入れない。
● できうるならば、五千句から一万句は作るべし。
(次の十年から十五年)第二期
● いよいよ俳句の本質の技術たるものを取得せよ。
● それには古今の美たるものも取得せよ。
● 壮大雄渾の趣を、説明するということなしに諷詠し続けるべし。
(そして死ぬまで)第三期
● 未来への選ばれし者たちへ。


「子規の最期の言葉」

 そして、もっとも重要なことは、この『俳諧大要』の最終章の第三期の最後の部分に子規がおそらく永遠に俳句を日本の文学を愛し続ける本当の理由が書いてある。
 それは明治を回天させてきた幾人もの志士たちの血の叫びととっていいだろう。
 おそらくこの書はこの最後の部分のために書かれたはずだ。それは、自身が死して尚、俳句が文学が永遠にこの日本に残ることを希望して、百年、千年の後世の若者に託す、もっとも美しいメッセージなのであった。

 「極美の文学を作りていまだ足れりとすべからず、極美の文学を作るますます多からんことを欲す。一俳句のみ力を用うること此の如くならば則ち俳句あり、俳句あり則ち日本文学あり」
    正岡子規・二十八歳
 


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