「17音の小宇宙―田口麦彦の写真川柳」
 
第10回 2009/08/28




  死んでも言えぬ話芒の穂に聞かす

photo by ajisai kitamura
 芒は秋の風情を代表する野草で、私が住む地の阿蘇の山々では、風に穂が揺れる景観が見られる。もちろん俳句では秋の季語。

  花芒月にさはりし音なるかや     高濱虚子
  おりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田蛇笏


 など数多くの名句が歳時記に収められている。十五夜のお月見に、お団子と一緒に飾られることが多い。私たちの川柳にはあまり詠まれていないかと思ったが、そうでもない。

  芒が原か/父かえせ/母かえせ    松本 芳味
  にんげんのことばで折れている芒   定金 冬二
  ファスナーをあずけ背中の芒が原   松本きりり

        (『三省堂 現代川柳必携』三省堂、2001年)

 俳句が情景そのものを詠むのに対して、川柳は人間に引きつけて詠むという違いがあろうか。
 さて、私の句の背景であるが、過ぎ越してきた自身の生い立ちにかかわる。お寺の息子として生まれ育ちながら、敗戦・引揚げという状況を経てサラリーマン人生を平凡に送った自省である。墓場の下まで持って行かねばならぬ過ちも一つや二つではない。
 いわば、悪人なのである。でも、親鸞聖人は悪人は救われるとおっしゃる。「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや。」(『歎異抄』第三章)
 普通の倫理観からすれば、善人が先に救われるはずなのにと思うであろう。
善人は、良い行ないを積むので自分の力で救われ仏の力を特に必要としない。(自力本願)
だが、欲望のまま突き進み、悪事に迷い込んだ者が、念仏をとなえて仏の慈悲にすがって来た時こそ救うのが仏の心にかなうという教え。(他力本願)
いわば逆転の発想と言えるかもしれない。
この世の身過ぎ世過ぎの中で、他人をどれだけ蹴落とし、傷つけてきたことか。それでもいいと言われる。いま、多くの新聞(西日本、中日、東京、北海道など)で連載中の五木寛之作「親鸞」を読んでいると、そのことがいたるところに出てきて教えられる。
 百年に一度と言われる金融危機。職を失って明日のない若者。老人・子どもみな救われて欲しい。


(c)Mugihiko Taguchi


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