神々の歳時記     小池淳一
      水平線

2009年11月20日
【32】七五三と産土神(うぶすながみ)

 子どもたちを美しく着飾らせて、その成長を祝う行事が七五三で、現代の通過儀礼としてほぼ定着している。その一方で、人は成熟していくにつれ、一定の年齢が節目となることを気にして、厄年と称し、何らかの儀礼を行うことも地域によっては根強く残っている。
 単純に歳を重ねていくことが、ある時期までは祝い事であり、途中から、特定の年齢で厄災がふりかかってくるとすることは矛盾しているようにも思われる。しかし、やがて還暦あたりから、再び歳を重ねてきたことを喜び祝う感覚が浮上してくることから、個人の年齢に沿って一連の民俗的な感覚が正負の両面にわたって表出する儀礼であることが了解されるのである。
 子どもの無事な成長を祝うことは、日本の伝統的習慣のように受け取られるが、実は江戸時代後半から始まった比較的新しい習慣であることが民俗学では指摘されてきた。十一月になると至るところで晴れ着を身にまとった子どもたちを見かけるようになったのは、最近のことで、それ以前は髪置き、紐解き、帯祝いといった子どものふだんの髪型や服装の変わり目を意識することの方が普遍的であった。
 こうした地域ごとの成長の節目が、大都市である江戸で包括的に祝われるようになり、近代に入ると、なくてはならぬ祝事として、百貨店などの宣伝がそれに拍車をかけていった。やがて、地方でも七五三を意識するようになっていったのである。
 そこには地域ごとの民俗が都市空間のなかで混ざり合い、新しい民俗が生まれていった過程が刻み込まれているともいえる。さらにいったん成立すると、それが新たな標準的儀礼として地方にも影響を与えるようになっていく。七五三からはこうした習慣や伝統の変貌、あるいは都市における民俗の形成という新たな視点を導き出すことができる(宮田登『冠婚葬祭』、一九九九年)。
 七五三には健やかに成長した子どもを、ここまで見守ってくれたカミに報告するという意味あいもある。その際に問題になるのは、どの神仏に詣でるか、という点で、江戸では、永田馬場山王宮、神田明神、芝神明宮、深川八幡宮、市ヶ谷八幡宮、赤坂氷川社、湯島天満宮、浅草三社権現などに多くの参詣者があったことが、天保九年(一八三八年)に刊行された『東都歳事記』には記されている。成長の新たな節目を迎えて神仏との縁を新たに結ぶことがそこには意識されているともいえよう。
 その際に、これらの神が、産土(うぶすな)神として意識され、江戸の人々が、土地神として尊崇を寄せていたことがうかがえる。神仏がその地域に生活している人々を守護するという信仰が江戸でも生きていたことが確認できるのである。
 民俗というと農山漁村に展開したものと解釈されることが多いが、都市に生活する人々の意識にもそうした要素は認められるのであり、そのこと自体も既に百年以上の伝統を持っているのである。都市に生きる人々と神仏との関わりを意識させる行事が七五三であるともいえる。
 七五三には人間の成長ばかりではなく、都市的な生活における神観念の成長、進展という問題も見出すことができるのである。
 
 


  子の髪を編みそめにけり七五三   平田想白




水平線


(c)zyunichi koike
 前へ 次へ

戻る  HOME