神々の歳時記     小池淳一
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2009年11月30日
【33】エビス神の性格

 旧暦十月二十日をはじめ、十一月の二十日、あるいは年を越して正月の十日とするところもあれば、二十日とするところもあるなど、エビスさんを祀るエビス講の日取りは一定していない。
 今、思わずエビスさん、と書いたように、エビス神は神社の奥まったところに鎮座している重々しい神というよりも―もちろん、西宮神社をはじめ、そうした祀られ方をしている場合も少なくないのだが―、農家の神棚の横や、漁村の港を望む場所などに日常の暮らしのなかにとけ込むようなかたちで、親しみやすいイメージで祀られてきた。そして現代でも人気のあるカミの一つではないか、と思われる。
 エビス神は祀られているところによったその性格はまちまちで、商家では商いの神、農耕地帯では田の神、漁村では大漁をもたらしてくれる神として信仰されている。いずれにしても幸福をもたらす神として信仰が発展してきたことがうかがえる。
 もともとは漁業の神で水界からの幸福を意識していたものが、漁村と関わりの深い商業と結びつき、やがて農村にもエビスの信仰が浸透していった。農村でエビスを祀るエビス講を百姓エビス講と言うのは、町場や都市で商人たちが尊崇する場合との違いを意識した言い方であろう。この日には鮒や泥鰌などを生きたまま供え、祭りが一通り済むとそれを井戸などに放したりした。エビス神と水界との関わりが、かすかに残っているとも言えるだろう。
 全国各地に残るエビス信仰のうち、東日本の農村部に十月や一月の二十日にエビス講を行うタイプの信仰が広がったのは寛文年間(一六六一〜一六七三)以降のことで、西宮神社のエビスの神像を描いた札の配布が幕府によって認められたことが、大きな契機となったであろうと田中宣一が考察している(『年中行事の研究』、一九九二年)。火事によって失われていた西宮神社の社殿の修復が寛文三年に完成し、以後、社殿の維持と費用を調達するためにエビス神札の頒布が盛んとなり、とりわけ寛文七年には幕府の裁許によって、その配布行為が保証され、組織が整えられていったのである。
 こうした江戸時代の宗教統制の記録から逆に民俗への影響や信仰の変容を探るというのは、多くの新しい研究上の視点をもたらす可能性がある。類似の遠隔地の寺社への参詣やあるいは勧請といった行為を慎重に検討していく糸口にもなるだろう。
 西日本ではエビス神は、耳が遠いという奇妙な伝承があることにも注意しておきたい。大阪の今宮戎神社などでは、通常の参拝だけでは不充分のように思われるのか、特に念入りに祈願をする場合には、拝殿の裏手に回って、羽目板(現在では円形の金属板が二枚据えられている)を強く叩いて拝むことが行われてきた。こうすることでエビスは人々の願いをようやく聞き入れてくれるかのように信じられているのである。
 強く叩いて、祈願の内容をカミに伝えようとするこうした行為には、神に敬意をはらうという要素は比較的微弱なようである。それよりも、ふだんの生活のなかで、隣人のように神仏とつきあってきた民俗信仰の特色を示すものだろう。知り合いや友人の肩を叩くような感覚ではないだろうか。
 こうした祈願方法は、エビス神にだけ見られるものではなく、庶民生活のなかに遺されてきた古い信仰の伝統につながる可能性をここでは指摘しておきたい。エビスの多様な性格とそれらが進展してきた道筋は、民俗信仰そのものの重要な側面を示しているのかもしれない。
 
 


  大根干済めば忽ち夷講    山口青邨





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