神々の歳時記     小池淳一  
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2009年12月20日
【35】霜月祭の神と仏

 三信遠接境地帯というのは長野県と愛知県、それに静岡県の県境が接する地域をさす独特の言い方である。三信遠とは旧国名の三河、信濃、遠江の冒頭の文字を連ねたのである。
 この地域では、年の暮から新年にかけて「霜月神楽」とか「花祭」、「雪祭り」、そして「冬祭り」といった民俗芸能が繰り広げられる。民俗芸能研究の分類によれば、湯立神楽であり、集落の社殿に竈をしつらえ、そこで湯をわかす。一昼夜あるいはそれ以上の間、湯立てを行い、日本全国の神々をそこに招き寄せて湯によって清め、再生を期するのだと説明されている。
 もちろん、単に湯を沸かし続けるだけではなく、竈の周囲ではさまざまな舞いや踊りが次々と行われるのである。そこには神を招き、神とともに楽しむ民俗的な祭りの感覚をまざまざと感じることができる。
 筆者も学生時代、この地域の神楽に幾年か通った思い出がある。長野県の遠山谷という天龍川の支流が流れ出る谷筋で十二月の上旬に次々と行われる遠山の霜月神楽がそれであった。山あいの村の日がとっぷりと暮れてから、神社の拝殿のなかに人々が群集し、湯立てが始まる。やがて舞いが舞われ、さらに仮面をつけ、神や鬼となった村人たちの踊りが次々と披露されていく。そこに登場する神々は記紀神話の神々とも大きな神社の奥深くに鎮まっていると信じられている神とも違う不思議な感覚に包まれた存在である。
 遠山谷の場合は、神楽の最後に登場する面は「宮天伯」とか単に「天伯」と呼ばれている。「宮天伯」が拝殿の奥から登場する頃は明け方にさしかかっており、冷え切った空気が朝日に染まる頃に、一晩中、喧噪を極めた社殿の四方をゆっくりと鎮めに歩く仮面の神は威厳と親愛とがひしひしと感じられる。日本人が長い年月にわたって、信じ、祈りを捧げてきた神が眼前に現れたような気がしたものである。そこには徹夜で祭りを見極めた感動とともに青春特有の感傷もあったのかもしれない。こうした神とそれを信じてきた人々の研究をしたい、と思った。それが筆者の民俗学志望の大きな柱のひとつであり、その印象は今でも鮮烈である。
 「天伯」という神はいったいどういう素性で、その分布はいかなる様相を呈するのか、についてはそれほど明らかにはなっていない。遠山谷の木沢という集落では「天伯」には何種類もあり、「宮天伯」は神社の森に住んでいて、社を守り、祭りの日に旗の番をし、種々の荷物を守るのだと言う(伊那民俗研究会編『山の祭り』、一九三三年)。「大天伯」「小天伯」と言われる神々もいて空を自由に飛び廻るなどとも言うから、天狗のイメージも付け加わっているのかもしれない。
 愛知県東栄町ではこうした湯立神楽の系統の芸能を「花祭」とか、あるいは単に「花」と呼ぶ。この祭りでも次々と鬼の面をつけた神々が登場し、新しい年の豊饒と安定とを約束する。
 演劇的な所作を通して神を感得していくのはこうした民俗芸能の特徴であるのかもしれない。そこには神が強く意識されるが、実際は恐ろしげな鬼のような姿で、ひどく荒々しい所作を繰り返したりする。
 「花祭」の前身として幕末の頃までは、より大きな規模の「神楽」が行われていたらしい。この地域の芸能を徹底的に調査した早川孝太郎は『花祭』(一九三〇年)の下巻でこの「神楽」をもできる限り復元しようと試みている。それは古老からの聞き書きといくつかの集落に残された記録とを丁寧につなげていく作業であった。
 そのなかで興味深いのは「神楽」のための舞台をしつらえた後に「東方ひがしは薬師の浄土の御すいしゃくの御本地と請じ殿附け候ぞ」と唱え、以下、南方観音、西方阿弥陀、北方釈迦、そして中央に大日如来とそれぞれの方向に向かって同一の文句を繰り返したという点である。これには明らかに仏教の如来や菩薩たちを招く意図が込められている。
 「神楽」の場には神ばかりではなく、仏もまた招かれていたのであった。日本人の宗教思想の根幹が神仏習合であったことは歴史学や宗教学からも指摘されている。民俗研究ではこうした神楽の世界にも仏を意識し、招くという儀礼があり、伝承されていたらしいことが重要であろう。三信遠の多くの神楽をこうした視点から再検討していく必要があるのかもしれない。
 
 
 


  里神楽見てゐて邪なきごとく   清水平作






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