神々の歳時記     小池淳一  
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2010年2月1日
【37】年頭の仏教儀礼と鬼

 寺院で年頭に行われる法会を修正会と称する。正月に修する法会といった意である。お水取りと俗に言い習わしているのは、奈良東大寺の二月堂の修二月会で、こちらは修二会ということになる。
 修正会、修二会はともに仏教の儀礼ではあるが、一年のはじめに大きくは国家の安穏、身近には心身の健全を祈るのは普遍的な感覚であろう。そこには民俗的な心意を見出すことも可能である。民俗学では仏教の教説よりもそうした年頭において、新しい年が良い年となるように祈ることを重視し、そちらが本来的なものととらえてきた。
 そのように考えることで、ムラやイエの行事との共通性を見出すこともできる。節分を経て立春に至る暦の上での新年にはさまざまな儀礼が行われる。現在では厳寒の時期に行われる儀礼や芸能が、実は春の喜びを表すものなのである。
 このことは、これらの儀礼や芸能が、今後の一年間を幸多いものにしたい、という予祝の側面を強く打ち出しているという見方でとらえることを可能にする。そこでは祭儀や芸能、行事が複雑に重なり合っているが、そうした状態を整理していく糸口が、立春とその周辺の寺院行事には見え隠れしている。
 東京浅草の浅草寺は古代以来の伝統を伝える寺院であるが、そこでの正月の儀礼は二重になっていることで知られる。観音堂で大晦日から正月六日にかけては修正会が行われ、除災や招福の祈願が行われる。密教的な要素とともに陰陽道の趣も見出すことのできる大寺院ならではの厳粛なものである。
 さらに正月の十二日から十八日にかけて、再び観音堂で温座秘法陀羅尼会が修される。この二つめの儀礼は、正徳二年(1712)に岡山の金山寺から伝えられ始まったものであることがはっきりしているもので、温座というのは、二十四時間にわたる法会が七日間続くため、導師の座が絶えず暖められていることを示すのだという(長沢利明「浅草寺の正月行事」東京都教育委員会編『東京の祭り・行事』、二〇〇六年)。
 この二つめの年頭の儀礼は、こうしたいかめしい名前ばかりではなく、最終日、結願の日の様相から「亡者送り」として知られている。先の長沢利明による報告によれば、結願日の正月十八日夜には最後の観音経の読誦が終わると堂の奥から青鬼、赤鬼が登場する。鬼たちは松明を手にして、それを時折、地面に叩きつけながら、裏の銭塚地蔵堂へと向う。地蔵堂脇にはあらかじめ穴が掘られており、そこには鏡餅が入れられている。鬼たちの松明もその穴に投じられてしまい、「亡者送り」が終了する。
 鏡餅は本堂において捧げられていたものであるが、曠野に住む餓鬼や魑魅魍魎の類への供物として、あらかじめ、ひそかに運び出されている。そしてこれを「曠野神供」と呼ぶのは、盆の施餓鬼供養と同じ意味合いであるとされている。突然、出現する鬼はそうした餓鬼に見立てられ、「亡者送り」というのは、年頭にあたって仏法の力で餓鬼たちに施しをし、それらを送り出してしまう演劇的な所作を端的に言い表したものなのである。
 寺院のしかも年初の儀礼の締めくくりに鬼が登場するのは、こうした事情や民俗的な意味を知らないと奇異に感じられるかもしれない。しかし、立春前後の神楽や祭儀のなかに鬼の姿をしたものが登場することはそれほど珍しいことではない。
 各地の仮面を用いた神楽の鬼たちは招福の力や邪気への対抗のため、荒々しいしぐさをし、奇怪な声を発するが、その性格は神に近いものであった。にもかかわらず、鬼の姿をしているのは、どこかしら亡者すなわち死者のイメージをたたえているからではなかったか、と気づかされるのである。年の変わり目が、実は死者を祀る機会でもあったことは民俗学の重要な発見のひとつであった。そうした感覚が寺院の正月行事には紛れ込んでいるともいえるのだろう。


 


   立春やあかつきちかき神楽舞    川田十雨






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