神々の歳時記     小池淳一  
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2010年4月1日
【41】入学今昔

 春は別れの季節であり、同時にまた出会いの季節でもある。大人になるということはそれを幾度かくぐり抜けることでもあるのだが、はじめて学校に入学するという時は、それぞれの人生にただ一度だけのことであり、それを緊張しながら経験すること、そしてその姿を見守ることは特別の感慨があるだろう。
 初等段階の教育は現代の日本では、国が設定した学校で行われることになっており、それを疑うことはまずない、といっていい。しかし、前近代の教育が私塾や寺子屋によって担われていたことはもう少し思い起こされてもいいことのように思われる。義務や強制、画一的なカリキュラムとは一線を画した学びの「場」がそこにはあった。
 そうしたかつての教育において庶民の勉学は、寺子屋を中心におこなわれることが多かった。全国至るところに寺子屋が存在し、世の中で生きていくための知識や技術がそこで習得された。学校制度の成立によって、きれいさっぱりとぬぐい去られたようにそうした前近代の教育の「場」は失われ、忘却されてしまったのだが、民俗調査の途次で、ぽつんと残された筆子塚などに出会うことがある。筆子とは文字を書くことを習った子どもたちのことである。そうした教え子たちが師匠を顕彰するために造立したのが筆子塚で、そこに刻まれている文字をたどっているとかつての学び舎の喧噪と師に対する感謝の思いが追体験できるような気もするのである。
 こうした寺子屋では学問の神、書道の神として天神が祀られていることが多かった。寺子屋と天神信仰との関わりを広く調査した高橋俊乗の「寺子屋における天満天神の信仰」(一九二九年、村山修一編『天神信仰』、一九八三年、所収)によると、もともとは寺院で広く尊崇されていた天神が寺子屋での修学に際しても崇敬されるようになったもので、そのため、寺子屋では天神の祭日である毎月二十五日は、休日になっていた場合が多く、そうでなくても天神を祭るために通常の勉学を休止して天神社に全員で参詣する習慣になっている場合もあった。
 さらに、寺子屋における信仰だけが原因ではないだろうが、かつては子どもたちの講として、広く天神講が存在していた。字が上手になることを祈願して習字の清書を奉納することも多かったが、近隣の天神社を全て参拝し、野山で遊ぶことが目的のようになっている場合もあった。天神への信仰が、こうした子どもの集団的な行動の契機にもなっていたことも現代ではたどりにくい、かすかな記憶になってしまっている。
 歴史的に興味深いのは、天神、すなわち菅原道真が能筆であったということを示す同時代の史料はなく、院政期から鎌倉時代にかけて、道真を書聖として弘法大師空海や小野道風と並ぶ存在であったとする伝承が形成されていったらしいことである。後の天神信仰の核となった『北野根本縁起』などでも道真を空海、道風に並ぶ筆の上手として位置づけている。菅原道真が天神として神格化されていく過程で、こうした伝承が付加されるようになったと推測されているのである。
 もともとは恐ろしい祟り神であった天神が、子どもたちの修学を見守り、そのシンボルとも目標ともされるようになっていくのは、見方を変えれば、子どもの世界にも学問の厳しさや尊さが浸透していったということになるだろう。そこには学ぶことで成長していく喜びと感謝の念も伴っていたに違いない。日本の教育の「場」の長い歴史を天神への信仰を糸口に顧みることもできるのである。

 


   這うてゐしが抱かれてゐしが入学す   江口喜一






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