神々の歳時記     小池淳一  
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2010年3月15日
【40】彼岸の感覚

 春分もしくは秋分を中心とする前後三日間を彼岸とし、特に法会を行うのは、平安時代からのことで、そうした行事を生み出す感覚はさらに古く遡ると考えられている。民俗学では、この頃になると気候が穏やかになり、仏事を行うのに適した環境となることを重視している。
 彼岸の中日には太陽が真東から出て真西に沈み、阿弥陀如来の浄土が最も近づく日だともいい、こうした考えから寺院などで彼岸会を修する習慣が長く育まれてきた。折口信夫は「雛祭りとお彼岸」(一九三六年、全集第一七巻)で、もともと春分に近い春の日に野遊びや山籠もりをする風習があった、と推察している。こうした風習は一方で雛祭りの源流でもあり、この時期にわざわざ野外に出かけることは、里での日常の暮らしと距離を置くことを意味しており、古くは物忌の意味があったというのである。
 自然の運行、四季の推移によって屋内から屋外へと人間の活動の範囲が広がり、農作業も本格化していく。日本人を見守る神仏はあくまでもそうした生活の場に即したかたちで意識され、伝えられてきたのである。
 兵庫県の加東郡、美嚢郡あたりでは、彼岸の最中に老女たちが、午前中は東に向かって歩き、午後になると西に向かって歩く習慣がかつてはあり、これを東に歩くときはヒムカエ、西に歩くときにはヒオクリと称していた。こうすると身体が丈夫になるというが、明らかにこの時期の太陽を拝もうという感覚が現れている。素朴な太陽への信仰をここから読みとることができるだろう。
 北関東地方では、彼岸の時期に天道念仏あるいは天念仏と称して、屋外に松や竹で棚を作り、大日如来をはじめとする諸仏を祀る。この基底には太陽を祀ろうとする感覚をうかがうことができる。また出羽三山信仰が盛んであった地域に濃厚に残っているため、山岳にその根拠を持つ修験道や密教の影響のもとに生まれ、伝えられてきた行事であろうとも推測されている。
 彼岸とそれに付随する霊魂供養の儀礼や行事は全国に広く分布し、民俗化した仏教の典型のひとつとされている。彼岸の時期になると念仏が修され、それに伴って鳴らされる鉦の音が寒気の薄らいだ里に響いたものであった。
 大阪の四天王寺はこの時期になると参詣者で賑わいを見せる。聖徳太子によって開かれたとされる古寺であるが、現在でも日常的に庶民の参詣、崇拝が盛んであることはよく知られている。ここで彼岸の中日に行われる法会を時正会といい、近世には融通念仏会とも呼ばれていたらしい。この日は四天王寺西門から入り日を拝む日想観の日でもあり、法会とともに阿弥陀如来への結縁をなそうとするものであった。
 意外なことに、おそらく中世から連綿と繰り返されてきたこうした行事の記録はほとんど残されていない。このことは、こうした行事が正規の僧侶よりも、聖と呼ばれ念仏をひたすら広めようとした半僧半俗の宗教者たちによって支えられ、伝えられていたことを示すのだろうと西瀬英紀は看破している(「四天王寺―彼岸会のころ―」『仏教行事歳時記(三月)彼岸』、一九八九年)。
 こうした彼岸の行事を民俗的なものと仏教的なものとを隔てなく見ていくと、太陽に対する信仰に仏教のさまざまな観念が結びつき、民俗として展開してきたことがうかがえる。彼岸の時期、昇る朝日に大日如来を想起し、沈んでいく夕日に阿弥陀如来の面影を見出そうとしたのは僧侶だけではなかっただろう。そこに庶民の素朴な信仰と生活の積み重ねがあったのである。

 


   尼講の鉦叩き行く彼岸かな    中川四明






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