神々の歳時記     小池淳一  
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2010年5月15日
【44】蚕の姫

 かつての農村で蚕を飼って繭をとることは重要な副業であり、現金収入の途であった。年に二回、場合によっては五回も蚕を育てる忙しい生活が近代の農村には広く見られた。 
 蚕を飼うための専用の空間を設けるのではなく、母屋や屋根裏を利用する場合も多かった。その場合、あたかも人間が蚕に追い出されるかのようなかたちになった。蚕などと呼び捨てにはせず「オコ(蚕)サマ」と呼び慣わしたものであった。またオコサマに充分に桑の葉を与えるには桑畑を整え、大量の桑を蚕室に運び入れなければならない。農作業と重なると寝る暇もない忙しさであったという。
 忘れてはならないのはこうした蚕養の作業の多くが女性の仕事とされていたことで、蚕の出来の善し悪しが時には嫁の評価につながることさえあったという。板橋春夫の『カイコと暮らし』(二〇〇八年、伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館)は主として群馬県下の養蚕の習俗に広く目配りした好著であるが、その中には、桑摘み唄として「蚕上手な嫁ごをもらい、細い身上(しんしょ)も太縞」といった歌詞が紹介されている。こうした唄は桑摘みの作業に際して歌われたもので、睡魔に耐え、激しい労働に従事するなかでの慰めや励ましの意味合いがあった。
 蚕は四回の脱皮を繰り返したのちに糸を吐いて繭を作り始める。脱皮の前には「眠」とか「休み」と呼ばれる状態になり、桑を食べるのをやめ、動かなくなる。一般にそれを「初眠」「二眠」「三眠」「四眠」という。茨城県の蚕影山神社の縁起では、蚕の前世は天竺の姫君であって、継母によって虐げられて山に何度も捨てられ、それでも生き延びたために最後にはうつぼ舟―内部が空洞になっている舟―に乗せられて海に流された、と説かれている。その舟は茨城の浜に流れ着くが、姫はそこで亡くなってしまい、虫に変じたのだと言う。そして蚕が成長の過程で四回眠るのは、前世の姫の苦しみを繰り返したどっているのだと説明する。
 奇妙な物語であるが、中世に広くもてはやされた神仏の前世は人間であり、尋常ならざる苦しみを経て、転生するという本地譚のパターンが蚕という虫にあてはめられているものである。この縁起譚は蚕の健やかな成長を守るとされた蚕影山の信仰とともにさまざまに語り広められたらしい。
 江戸時代の常識百科とでもいうべき井沢蟠竜の『広益俗説弁』の附編(享保四年・一七一九刊)第三十六には「蚕食の始の説」として「俗説に云、欽明天皇の御宇、天竺旧仲国霖夷大王の女子を金色女といふ。継母にくみて、うつほぶねにのせてながすに、日本常陸国豊良湊につく。所の漁人ひろいたすけしに、程なく姫病死し、其霊化して蚕となる。是、日本にて蚕食の始なり。」と記されている。近世にもこの説話が広く知られていたことがうかがえる。
 中勘助の『銀の匙』(後編)は大正二年(一九一三)に執筆されたものだが、その第八章には主人公が蚕を育てるシーンがある。そこでは主人公の伯母が「お蚕様はもとお姫様だった」と教えてくれたことになっており、さらに「お姫様は四たびめの禅定から出たのちにはからだもすきとおるほど清浄になり、桑の葉さえたべずにとみこうみして入寂の場所をもとめる。それをそうっと繭棚にうつすとほどよいところに身をすえしずかに首をうごかして自分の姿をかくすために白い几帳を織りはじめる。」と描写されている。
 『銀の匙』は子どもの瑞々しい感性を叙情的に記した名作と評されるが、ここでは、中世以来の民俗的信仰の知識が効果的に用いられているのである。蚕を育てるという作業のなかで、その習性に女性の面影をあてはめることと、実際に養蚕の作業の多くが女性によって担われてきた現実とは、互いに響き合うものであったに違いない。
 

 


   まをとめの守りてさびしき蚕の眠り   内藤吐天
 



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