第1回 2010/01/12

  高濱虚子の100句を読む     坊城 俊樹




   春雨の衣桁に重し恋衣     虚子

 明治二十七年作。『五百句』の最初に登場する句である。
 『五百句』は虚子自選の句集で、明治二十四年ごろから昭和十年までの作品から五百句にしぼったものである。およそ明治、大正、昭和にわたる自選句集であるがこの句が明治七年生まれで二十一歳ごろの句とすれば、その後四十年にわたる作品集となる。すなわち、人生の大半のものはこの句集におさめられている。
 その第一句目であるから、初めての読者は虚子の俳句がこのような雰囲気のものからスタートしたと考えられるだろうが、実際はその前の三年間に少なくとも数百句程度は作られ、その後八十六歳で没するまで変幻自在の俳句の境地へと誘うことになる。
 おそらく虚子は明治二十四年初夏に俳句というものを始めていたようだ。子規との文通による出会いが同年五月。『年代順虚子俳句全集』明治編という句日記のような本に最初の習作句がある。

  群雀鳴子にとまる朝ぼらけ     虚子
  朧夜や我も驚く案山子かな      同

 十八歳と思えば悪くはないが、特に秀でているとも思えない。子規に見てもらっていたにもかかわらずである。虚子はふつうの人としての俳句でスタートしたといっていい。
 掲出の句は『年代順虚子俳句全集』明治編においては、どういうわけか「その他」の句のうちのひとつであまり重要視されていない。『五百句』の刊行が昭和十二年、『年代順虚子俳句全集』明治編の刊行が昭和十五年であるからその後気が変わったのか。
 実はそうではない。年代順は虚子のほとんどの句を列挙したのにたいして、前述したように五百句は虚子自選である。どうやら虚子はその編集を他人にまかせたようで、その編集方針からこの句がその他になったらしい。
 虚子は鷹揚なところがある。いちおうは編集者が書き出した句を見たようだが、その配列や抜けている句の抽出をどの程度緻密にしたかがわからない。
「私も一応目を通しはしたのであるが、大体は井出君の編集方法を尊重してそれに従ごうたのである。従って私ならば省く方が穏当と感ずるのもたまたま載ってをるものがある」
 なんと鷹揚なことであろうか。井出君もたいへんである。もしかしたら世紀の名句が入っていなかったかもしれないが、『五百句』に載っているものさえ省かれていなければ虚子はよしとしたのであろう。
 さて、二十七歳のころのこの俳句は、謡曲の「恋重荷」(こいのおもに)をふまえて作られたとされる。この句は「めさまし草」という文芸雑誌に発表されたものなので、いわば能や戯曲を踏み台にした芸能俳句といえる。その後の虚子の俳句からはかなり遠いところにある句だ。
 だからこそ、虚子は『年代順虚子俳句全集』明治編ではその他扱いとなるこの句を『五百句』で抜粋したのだろう。
 そもそも、高濱虚子という俳人の本性は炎のような激情の人である。
 俳句以前の姿としての文芸に熱い思いを持っていた。それはその後の森鴎外や幸田露伴などからの影響もあったろうが、それ以前に熱かった。
 掲出句はそれそのものは舞台の中の世界、物語の中の世界といってしまえばその通りだがそれを現実の主観的な句として虚子は掲出した。二十七歳の若者が恋や学業、あるいは仕事に悩み逡巡し憧れるそのものの世界を俳句とした。
 「重き」ではなく「重し」である。ここで、ちょっと切れる。一拍鼓が打たれる。この切れは虚子の主観、というより恋衣への虚子の情熱である。むしろ春雨にたいするそれより熱い。まだ虚子は季題論者ではなかったからだ。
 謡曲「恋重荷」は、世阿弥プロデュースによる恋に悶死する老人の亡霊の話である。そこにあらわれる恋の重荷とはかならずしも恋衣に限定されるものではないが、虚子はそれをつややかな春雨に濡れた恋の衣とした。そこが俳諧である。
 虚子は十八歳あたりから子規や碧梧桐などと俳句のレッスンをしつつ描写などを学んできた。やがて、文芸あるいは社会や政治に目覚め、恋に目覚めてゆく。当然のように若者というものはこの定型からあふれ出るような熱情を覚える。
 それを春雨のなか、精霊が恋の衣を濡らし舞うような俳句とした、虚子たる艶が決定したはじめての句ではなかったろうか。それはおそらく昭和十二年に『五百句』を編集していた六十四歳の虚子をして、人生の来し方をふりかえるにふさわしい走馬燈のような秀句であったのだろう。
 ちなみに、この年の二月に河東碧梧桐が亡くなっている。たしか、刊行された三月ほど前のことだったはずである。
 
 

(c)Toshiki  bouzyou
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