第2回 2010/01/19

  高濱虚子の100句を読む     坊城 俊樹




   怒濤岩を噛む我を神かと朧の夜  虚子  明治二十九年三月

 明治二十九年の三月には、夏目漱石の熊本赴任があった。虚子はその送別の意味もあり、宮島まで漱石とともに船に乗る。そのときは一等船室に乗れたらしく、漱石も虚子も新しい門出に上機嫌であったようだ。
 このころから虚子は「破格」、というより「破調」の句が目だっている。漱石や村上齋月たちと「神仙体」という詩歌の即興に夢中になっていたからである。
 神仙体は、漱石の漢詩から着想した齋月の「転和吟」がもとになっている。漢詩の世界から刺激された新俳諧の風景とでも言おうか。連句とも異なるが、より視覚的で音楽的なフリーセッションのギグを連想させる。
 そして、幻想風景を吟じることが五七五に収まりきれない理由。そこが破格に結びついている。さしづめ、後年の漱石の『草枕』や『こころ』を連想させると言ってもいい。
 この句は『めさまし草』に掲載された。これは文芸誌であるが、けっこう先鋭的で評論的な雰囲気が横溢していた。虚子もそのひとりで、俳句よりも文章に力が入ってきた前夜である。
 この句は虚子の自我が等身大の自分を神化させた句。怒濤は漢詩の中の非現実的な怒濤となる。その岩頭に立つ朧めいた化身。後年のプロパガンダ風の「春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子」(大正二年)と比べれば明治の青年壮士風の雰囲気におどろかされる。
その年末、漱石からの手紙が来た。
 「今日『日本人』三十一号を読みて君が書トク体の一文を拝見致しはなはな感心いたし候。立論も面白く行文は秀でて美しく見受け候。この道にしたがつてお進みあらば君は明治の文章家なるべし・・・『世界の日本』(竹越三叉刊行の雑誌)に出たる(音たてて春の潮の流れけり 虚子)と申す御句はなはだ珍重に存じ候。ただし大兄の御近什中にははなはだ難渋にして詩調にあらざるやの疑ひを起こし候ものも有之様候。」
 別れて半年、文章はともかく、神仙体や歌仙を発表しつづけていた虚子の句に少しうんざりしていた漱石の様子がうかがえる。
 そのじぶん子規はもうカリエスによって須磨の療養所に入っている。虚子という後継者を意中にしながらも、どのような心情で漱石や虚子たちを見守っていたのだろうか。

 
 

(c)Toshiki  bouzyou

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