第36回 2010/10/19

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹




   やり羽子や油のやうな京言葉    虚子 
                 昭和二年十二月

 『五百句』においては、作成時期は単に十二月となているが、十二月一日より改造社の依頼の小説執筆のために京都に入っている。したがって十二月第一週あたりに作られた俳句であると考えられる。
 同時期にはこれに続いて、

  東山静かに羽子の舞ひ落ちぬ    虚子

 この二句ははたして正月の句であるが、十二月初旬に作られているのが不思議である。

 「時雨をたづねて」昭和三年という文章がある。
 おそらくは、この文章を改造社に掲出するための旅行であったと思われる。すなわち、素十、夢香、王城、泊月らと京都へ東山の時雨を尋ねてゆく旅のことである。
 どうもこの旅は虚子が急に思いついた旅であったらしく、その他の随行者たちはそれに引きずられて同伴したらしい。いやはや各界の大物たちも虚子先生に従わねばならなかったのか。
 
 「其朝は静かな朝であつた。障子を明けると東山は朝靄に包まれて軟らかい線を空際に見せて居た。庭の紅葉の梢にとまつてゐた雀は暫くの間一つところにぢつとしてゐたが、やがておとなしく松の梢に移つた。三人はその朝の景色を眺めた」
 参加者が四人でなく三人になっているところが小説・写生文としてのご愛敬のところ。と思っていたら、どうやら地元の王城は翌日参加したらしい。
 ともかくその日は時雨どころか、日が艶然と輝いていたようだ。

 文章には隣の家の女中か何かが竹竿で物干しをしていた様子が書かれている。それが中庭の中らしく虚子たちには竿の動きしか見えなかった。その動作がまたつつましくさすがに京都らしいとも言っている。
 どうもそのあたりの風景などを写生していて、あげくの果てに遣り羽子の句などを連想したのではなかろうか。
 その後虚子たちは、嵯峨へ行き寂光寺などを見る。その際に、数人のばあさんが早口の京言葉でぺちゃくちゃしゃべっているという光景がある。しかし、これが掲句の油のような京言葉であるとはちょっと考えにくい。
 
 結局、時雨にはそのあたりで遭遇できたようだが、この旅においての羽根突きの場面はもちろんあり得ない。
 東山の羽子のしづかな余韻も、寂光寺の羽子のゆったりとした言葉も、虚子にもともとあった京都の女にたいする憧れのようなものが作らせたのである。





(c)Toshiki  bouzyou
前へ 次へ  今週の高濱虚子  HOME