第28回 2010/08/17

  高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹




   どかと解く夏帯に句を書けとこそ    虚子 
                 大正九年五月十六日 婦人俳句会。かな女居。

 「鎌倉のもと本覚寺の境内であつたところに小町園といふ料理屋があつた。或時鎌倉能楽会のくづれがそこに行つて杯を上げた。女中頭であつた・・名は忘れたが・・女が少し酔つて、自分の締めてゐる夏帯を解いて、重たいものを投げ出すやうにそこにおいて、それに句を書けと云つたことがあつた。」
  『喜寿艶』昭和二十五年
 今はもう無いであろう小町園という料理屋だが、ずいぶんいさましい女中頭がいたものである。
 虚子はその名前も忘れたくらいなのだから、さほど美形とも思えない。想像では太り肉の体格のよい、色黒の大きな声の女将さん風の女であろう。
 
  瓜揉を作る間客を捨て置いて   虚子

 同日にはこんな句もあるのだから、虚子はどうもこの料理屋をよろしと思っていない。

  夏菊に袷の色も薄からず     虚子

 こんなのもあって、女中たちの袷の色のセンスもよろしくないと云いたかったようである。
 もっとも、虚子はわりに女性の帯に句を書くことは厭ではなかったようだ。
 その場で帯を解かれて書いてくれというのは、あまり無かったであろうが、(皆無であったかはよくわからない。もっとも昵懇の女性に仮にそのようなことがあってもわざわざそれを句にしたり、ましてやそれを発表することは無いであろうから)親戚や周辺の女たちへ送った帯を見たことはある。
 『喜寿艶』は虚子が喜寿、すなわち七十七歳のときに艶句ばかり七十七句を自選したものである。
 ある意味で隠れた名著。その気の入れようはすべてに直筆での揮毫が印刷されてある。その字もまたよく揃っているので句集のために書き直したに相違ない。
 それほどの句集であるが、俳人や親戚の間での評判をあまり聞かない。むしろ、そっと無視しているようにも見える。
 この「艶」という字が曲者であったのだ。聖人君子であるはずの虚子先生が艶ばかりの著書を出されるのは困った。
 しかし、この大正九年、虚子が七十七歳のころの男艶とはいかがなものか。若いときも老境のときも良かったが、この齢に来ての艶の見事さよ。
 より一層見事なのは虚子のこの句における男としての我儘さ加減である。
 美形の女には絶対に見せない、醜女にたいする依怙贔屓と偏見。現今の優しい男たちにない明治の男の真骨頂ではなかったか。
 実を言うと、私はずっとこの句を森田愛子の母のことだと勘違いしていた。愛子と母が残り少ない人生のひとときを綺麗な着物で舞った。その場で、だから虚子は老い泣きをした。森田愛子も母も立子もみな泣いた。
 これは小説『虹』の名場面であるが、この情景と混同していた。
 いやはやひどい混同であるが、それが逆に虚子の女性にたいする儚い美しさをいかに真実の美としてとらえていたかを象徴する誤解ではなかろうか。
 




(c)Toshiki  bouzyou
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