わかりやすい俳句添削教室
原 雅子 いしだ


第50回 2012/5/11


《原句》①

  烈公の歌碑や押し照る新樹光

 歌碑や句碑、あるいは詩文を刻んだ碑などを句に詠むのは難しいものです。というのは成功例が少ないということ。
 先人の業績やその作品を(たた)えて後世に伝えるために碑が作られるわけですが、たとえば芭蕉の句碑などは建てられているその地といったいどういう関係があるのだろうかと首をひねるようなものも多いのです。当人の意志とは無関係に、後の時代になって滅多矢鱈に作られて、本人はあの世で苦笑していることでしょう。
 話が脱線しましたが、碑を詠むのが難しいというのはひとつには、その内容(ここでは歌ですが)を句に盛り込むことが出来ないため、作者が何に感動したのか不分明という場合が往往にして起こるせいでもあります。
 その点にも心をとめて原句を見てみましょう。
 烈公とは江戸末期の水戸藩主、徳川斉昭の()(ごう)。数々の藩政改革を行いましたが藩内の対立をも引き起こし、幕命によって隠居。復帰してのち、ペリー来航を機とする政情不安に幕府参与として迎えられますが、将軍継嗣問題や条約勅許問題によって幕閣と対立。尊攘派の立場を貫きましたが安政の大獄を誘発し、謹慎、永蟄居の処分を受け、水戸で死去。このように駆け足で経歴を辿っただけでも、「烈」の文字にふさわしい人物だったようです。
 歌の内容は、国を憂える心情か失意を洩らした一首であったかは分かりませんが、歴史を背景にしてその生涯を偲ぶよすがになったものと思われます。
 「押し照る」の措辞はもちろん「新樹光」を形容していますが、同時に烈公の強く烈しい人物像からくる印象に支えられています。その歴史的事蹟を思い浮かべつつ歌碑を眺めるとき、新樹に照り映える陽光も格別の輝きで見受けられた、との句意でしょう。
 難しい素材にもかかわらず、成功した作品になっているのは「押し照る」のすぐれた把握によっています。





《原句》②

  連ぎょう垣黄色い声の通学路

 「連ぎょう」は〈連翹〉。三、四月頃に黄色の筒状四弁花を枝いっぱいにつける落葉低木です。
  遠くゐて連翹の黄と思ひをり   森 澄雄
と詠まれているように遠目にもそれと知れる鮮やかな黄色の花です。原句は漢字仮名混りの表記ですが、一目で植物名と分かるように〈連翹〉としておきましょう。
 この連翹を垣に仕立てている場所が通学路にもあたっている、つまり同じ場が上五下五の両方で言われています。単純に読めば「連翹垣」それは「通学路」です、というだけになってしまいますから、場所を示す「垣」と「路」のどちらかを省く工夫がいります。
 さらに、中七の「黄色い声」は通学の子供たちの声ですが、この句の構文上は「通学()」に直接掛かっています。この表現はもう少し丁寧にしたい。そしてもう一つ、連翹は黄色のイメージが強いものです。そこに黄色い声が重なってはうるさくなります。故意に狙ってのこととすれば単なる言葉遊びに終わってしまって、実感的な状景描写からは遠ざかってしまうでしょう。人物をはっきりと出すべきと思います。
  連翹の垣通学の声過ぐる
  連翹の垣つぎつぎに通学児
など考えられますが、連翹垣と通学児に関わりを持たせて、児童の姿体まで想像させるように、

《添削》

  連翹の垣に触れゆき通学児

 「連翹垣」を〈連翹の垣〉と「の」を入れたのは、音数の問題もありますが、言葉の(ひび)きがやさしくなるためです。一句の調(しら)べということも韻律の詩である俳句にとって大事にしたい点です。





《原句》

  ふり向けば大和三山朧なり

 万葉集にも詠まれた大和三山は、奈良盆地南部、飛鳥地方の、耳成山、香久山、畝傍山のことです。小さな山ですが古代この三山に囲まれた中心の低地に藤原京が置かれました。
 作者は高みに立って見下ろす位置で眺めたのでしょう。春、茫洋とかすむ中に浮かび上がる三山の景色はゆったりした気分を誘います。こまごました描写をしなかったことが句柄を大きくしました。
  ただし上五の「ふり向けば」との条件づけは、せっかくの句柄の大きさに反します。いわば味の素を振りかけるようなもので、小技を利かしてしまったといえるでしょう。これは勿体ない。「ふり向」く動作は何らかの原因があると思わせて、ことごとしく感じられます。意味あり気といっていいでしょう。代わりに内容としてはほとんど変わりませんが、〈(かえり)みる〉としてみましょうか。〈振り返ってみる〉意のほかに〈もう一度見る〉〈追憶〉〈回想〉などの語意があります。こちらならば、心惹かれて再び眺めているという趣も出てくるようです。
  そして「朧」についての見直しですが、この季題は〈春の夜の万物がもうろうとかすんだように見える〉とか〈春夜の情感〉という歳時記解説があるように、もともとは朧月夜の情景であったはずですが、次第に詩歌の対象としては夜に限定せず情緒的に使われることも多くなってきました。春は低気圧によって大気中に水蒸気をたっぷり含むことが多く、その限りでは夜でも昼でも同様ですが、原句の場合、紛らわしい「朧」よりも、はっきり日中の自然現象として〈霞〉を使ってはどうでしょう。

《添削》

  かへりみる大和三山薄霞

 字面の優しさを採って、平仮名にいたしました。また、〈霞みけり〉と動詞にしなかったのは一句中に動詞が二つ重なるのを避けるためです。




《原句》④

  猪と同じ路行き山つつじ

 猪が往き来する山中の道、いわゆる獣道です。動物写真家はこういう場所を狙ってカメラを設置したりするそうです。写真家ならぬ作者としては獰猛な猪に出現されてはたまったものではありませんが、山中に分け入るのにこの道を利用しない()はない。ほそぼそと続く踏み跡を辿ってゆくと、思いがけず山つつじが朱色の花をつけていた、という句意で、分かりにくいところは一つもありません。むしろ丁寧すぎて説明的になっているのが「同じ路行き」の部分。
 〈猪道(ししみち)〉という言葉もありますから、それだけで充分です。

《添削Ⅰ》

  猪道を辿りてゆけば山つつじ


 山つつじを発見した心の弾みを表すために〈……ゆけば〉と強調するかたちにしましたが、〈道〉の様子をもっと付け加えるなら、一案として次のように。

《添削Ⅱ》

  
(しし)ゆきし道の途切れて山つつじ





《原句》⑤

  春風のパン屋花屋と過ぎにけり 「過ぎ」ていったのは、「春風」か作者かと一瞬迷うのですが、これは「春風」でしょうね。かろやかな楽しい作品です。魚屋さんや八百屋さんではこうはいきません。暖かい風が途端に生臭くなってしまいます。
 軽妙な仕立ての句ですが、「……にけり」の収め方が句の内容に対していくらか重いようです。〈過ぎゆけり〉でよいでしょう。

《添削》

  春の風パン屋花屋と過ぎゆけり

 上五を原句の「春風の」から〈春の風〉に改めました。散文調にならないための工夫です。

                (c)masako hara

              






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